現代美術の状況は、基本的に社会に対する期待と不信とは無関係ではありません。現代美術作家は、直接的にそれが現れないとしても時代状況に対して敏感に嗅覚を働かせているものだと思います。それが論理的でないとしても、時代の空気というものに作家の肌感覚は、不可避的に曝されます。
芸術の自律性を唱えていた作品や、社会や時代と無関係に思われる作品であっても、時代の感覚と無反応ではなかった。美術作品は当時の状況に反動的であれ賛同的であれ、無関係のものだとしても、一つの開かれた可能性(この可能性自体には道徳的な判断は問うことができません)が示されていました。
広義の意味でリアリズムを捉えるとすると、芸術には2つの効力を持つといえるでしょう。それは期待=不安を粉砕する(同時に別の可能性を指し示す)リアリズム、もう一つは期待=不安に幻想の力を与える(即応性の)リアリズムです。これはきれいに二分されるものではなく、二重性を持って作家は嗅覚を働かせ、無意識的な反応も含めて作品の志向性を定めていくものだと思います。
これは美術の危険な力でもあり、同時に根本的な可能性でもある。可能性といったときに必ずしも作家や美術内部の人間が操作できるものではなく、状況的なものによってそれが利用されるということもありえます。
経済や政治といったけして安定することのない環境で、自分はどのような可能性を示し続ける(反応し続ける)ことが必要なのかというのが、作家の一つの倫理的な判断/態度になっていく。
今は期待=不安に対する関心と、それに対する新しい打開策(想像力)が求められること、同時にその状況に対する危機感というのが強くあります。マスコミや様々なメディアに引っ張られ、社会ではお互いがお互いを監視し、逆にわれわれは何を監視することができていないのかが見えない状況になってきているのではないでしょうか。それこそがまさに地に足がつかない状況を作り出していく。こういう中で先に示した芸術の効力(一つのあり方ではありませんが)はより強く求められています。現在はその意味で作家が作品を作り続けることの倫理的な判断・態度が、さらに強く問われる時代になってきています。