デュシャンの「階段を下りる裸体NO2」はキュビストたちに批判された大きな理由は、対象が動いている。もしくは運動を描いているからである。その作品のタイトルは、更にキュビストたちの反感をかった。
キュビストたちは、あくまで静物やポートレイトという古典的なジャンルにこだわっていたし、片方に未来派との対抗意識があったからだ。
しかし、わたしが思うに対象が動いていたというよりもデュシャンの絵画とキュビズムとの大きな差異は、この絵の観察者=デュシャン=画家が非常に安定した位置にいるということであるのではなかろうか?
対象は動いているが観察者は動いていない。
未来派のダイナミズムは、対象と観察者のダイナミズムでもある。観察者も動き、対象も動いている。
おそらく、デュシャンの「階段を下りる裸体NO2」とは、画家と対象の関係が、鑑賞者と映画の関係と同じである。
それはある意味で批判される安定した関係であり、キャビストたちはそこを破壊していったのだ。
実はデュシャンは、メディアと観者の関係=形式を利用するが、破壊しない。実はデュシャンの作品を見るという行為自体は、キャビストたちより、もしくはアメリカのモダニズム作家たちよりも古典的なのである。
たとえばアメリカのモダニストにおいて立体が、作品と観者の関係をラジカルに変えようとした。
しかしデュシャンは、レディーメイドを観ることと、彫刻を観ることに行為的なレベルで違いがないということにラディカルさはあったいえるだろう。
それが網膜的ではないとデュシャン考えたのだろうが、おそらく、それよりも彼があらゆる装置を作り出したように、メディア主義的な志向性を打ち立てていたのである。それはウォーホルに継承されていく。
モダニストたちはメディアというジャンルを破壊したが、デュシャンはメディアを利用し、多用したのである。
そしてコスースなどに始まるコンセプチュアルアーティストたちは、その二方向の可能性を、混同し、捻じ曲げて、展開させた。