今年の4月から、国立のラブホテルで清掃バイトを始めた。ホテルの清掃バイトという募集に何気なく応募したら、それがラブホという成り行きだった。清掃バイトを選んだのは、接客なんかより気が楽そうだったのと適度に体を動かす仕事だったからだ。
そんな感じで始めたバイトも五ヶ月になる。基本的には一週間に一回くらいしかやっていないバイトだが、まぁ仕事の段取りや職場の雰囲気などはだいたい把握している。
さっき接客ではないと書いたが、バイトでは客と鉢合わせをすることがよくある。当然のことだが、そのとき僕たちは絶対に客と目を合わせてはいけないし、客を見たら隠れなければいけない。つまり、僕たちはできる限り存在を透明にしなければならない。
こんなことは場所が場所だから当然だし、働いている人のうち誰もが気にしていない。でもそれは職業であるからだ。それが昔の黒人は、職業としてではなく、存在がそのようなものとして扱われていたのだと思うと、すごいことだなと改めて思う。そして、その関係についても先に僕が使った「当然」という言葉が使われていたんだ。
仕事ではなく、存在として透明さを強いられるということはとても不条理なものだというのはありきたりな話だが、自分の経験からそういうことを置き換えて実感できるとまた変な感じがする。確か93年のホイットニービエンナーレでも黒人のアーティストが、黒人がやる職業の制服を展示するという作品を作っていたのも思い出す。まぁだからってその作品を褒め称える気もしないけれど。それがある人たちにとっては大問題だったということは、忘れちゃいけないのもよくわかる。もうそういう問題がないかといえばぜんぜんあるわけで、けれどこれは僕が言わなくても多くの人がいっているし聞き飽きたことでもあるかもしれないからあえてここでくどくど言うことはよそうと思う。
ただもし僕がラブホテルの清掃員が職業ではなく、存在になってしまったら、普通の人は誰も僕に声をかけないかも知れない。そして話さなければ、僕はずっとラブホ清掃員のイメージを破ることはない。というのは容易に想像がつくものだ。
「エデンより彼方」も、重役夫人のキャシー(白人)と庭師のレイモンド(黒人)の関係は、その「当然」という恣意的なルールを、当たり前の考え、行動をしていたら、通り越してしまったという話だ。
キャシーがレイモンドを一人の知的で魅力的な人間であると認識したのは、ある前衛的な美術の展覧会でジョアン・ミロのペインティングの解釈をレイモンドがキャシーに聞かせた時で、キャシーはそれで素直にレイモンドの知性に驚くわけだ。この人は白人よりも高い知性と魅力的な感性の持ち主だ確信する。
そして、レイモンドがキャシーに人種差別に対する反対運動への呼びかけをするときにも、色や形の表層にとらわれない、本質、つまり同じ人間としてみてほしいというときにミロの作品の話をする。これは一つの理想的な話だが、ひどく当然のことだ。
と同時に、自由という問題を現実的に考えるならば、自由と掲げるとき、自由は確かにすばらしい、けどアメリカの自由とイスラム教の自由は同じではないということになる。
同じだということと同じにするなということ、これは非常にデリケートな問題だ。
そしてレイモンドとキャシーは、周囲の迫害から、運動に参加することを断念する。二人のひそかな恋愛も結ばれないで終わる。気持ちの上ではお互いがお互いを尊敬し想っているのに。
人間にはさまざまな欲望や幻想が介入していて、国と国、民族と民族はみんな自律してないくてお互いの関係の中で存在していて、資源は有限じゃなくてすべてはとても複雑なんだけれど、どうしてこう冷静じゃないのか、と同時にどうしてこううまくいかないのかなと思うけど、けれども「エデンより彼方」の断念の仕方は妙にそっけなくて、僕にとっては痛く悲しい印象を残した。