「If There Were Anywhere But Desert」
美術
Ugo Rondinone「If There Were Anywhere But Desert」(2000)
T: これはまた怠惰な感じのピエロ達ね。
U: そうだね。仕事を放棄してぶくぶくと太ったピエロだね。
T: これってなんだか不気味な感じがするわ。
U: このふてぶてしさがね。ストライキって感じでもないし、観客をなめきってる感じがするから、かわいげがないよね。
T: これが人形だからさらに言い切りがあって虚無感がすごいわね。去年の横浜トリエンナーレに来ていたPeter Fischli & David Weissのネズミとパンダとやっていることはほとんど一緒なのに受ける印象がずいぶんと違う。

U: そうだね。でもUgo Rondinoneは、 Fischli & Weissと同じスイスの作家なんだよ。
T: なるほどね。Rondinoneの画集を観てみると確かに彼はPeter Fischli & David Weissが存在しなければ現れなかった作家という気もする。でも、やっぱり遅れてきたYBAっていう感じもするわね。
U: 彼より10歳ほど年下だけれど同じスイスの作家URS FISCHERもそんな感じはするなぁ。
T: アメリカ美術の受容の仕方が似てるのよ。でも何でケネス・ノーランドなのよ?
U: おっとさすがにお怒りだね。たしかに、Fischli & Weissの歴史に対する態度に賛同はできないせよ、二人の徹底には意味を感じられる。それに対して彼らの美術の引用の仕方は、YBAとも違って、引用の脈略がはっきりしないこともあってイラッとするのは確かだね。でも同時にそれが彼らの作品をミステリアスにしているとも言えるんじゃない。
T: 所詮現代美術のゲームとしか思えない。けど彼らもそのことに自覚的でその諦念も含めた寒々しさがナイーブでない作家像を作り上げているということかしら。まぁ変態ぽさをしっかりおさえているしね。
U: 同感。良くも悪くもPierre HuygheやDouglas Gordonのような無邪気さやノスタルジーは感じられないしね。ただ彼らにはHuygheやGordonに対する憧れは感じるなぁ。
T: まぁ、これからはアメリカの指導力はますます弱まっていく一方だし、彼らはどういう変遷を辿っていくのか楽しみだわね。で、この作品が誰を参照にしてるかは明らかだし、もう少し違う角度で作品を見てみよう。
U: オーケー。ではこの作品で、単に参照元うんぬんについて語らないで観るとすればどのようなことが語れると思う。
T: それはきわめて明快だと思うわ。
U: どういうこと?
T: さっきも言ったけれど、Fischli & Weissのネズミとパンダの作品とは印象が大きく異なる。どちらが良いとかは全く関係なしにね。その違いはどこかしらってこと。
U: 確かに。この作品は、なんだか滑稽だよね。でもFischli & Weissのようなほのぼのしたユーモアとは違うよね。この作品のどこが滑稽なんだろう。
T: 冷めた滑稽。そうこれは冷めたジョークだと思うわ。
U: 冷めたジョーク。ナンセンスなジョークだね。
T: そうこのナンセンスさは、きわめて明快といっていいわね。この作品では言わんとしていることと、やってることに矛盾がある。Fischli & Weissの作品の作られ方は、まるで広告的といっていいほど、メッセージと作品から受ける印象が一致しているでしょ。それに対して、この作品は「早く、早く、急いでゆっくりしなさい。」と言っているようなものよ。
U: はははは、そうか、そうかもね。
T: ピエロは仕事を放棄し怠惰で観客を嘲笑しているように見えるけれど、この作品はずいぶん丁寧に作り上げられている。作家はぜんぜん仕事を放棄している感じじゃないわね。これが発注だとしても同じことよ、つまり物(商品)としてのわかりやすい説得力が含ませているんだから。
そして、ぶくぶく太っただらしない身体は、色の使われ方や素材、展示方法もあいまって、非常にシャープに展示されているでしょう。つまりその矛盾って、結局どっちなの?っていう印象を観客に与え、作家の意図が読めいないから不気味さが生み出されているのね。
U: なるほど。
T: ウォーホルを参照してる女装した写真も同じことがいえると思う。女になろうとしているけど髭をけすことも男であることを隠そうともしない彼の意図は、宙吊りのままミステリアスなわけね。