美術界にもいよいよ世界恐慌の波が、といろいろなところで言われるようになってきた。
フランスアート界底辺日記//首切り
このブログで書かれているとおり、美術市場は、若いってだけで買われる投資系の売買から、美術において目利きや価値が問われる時代へとシフトチェンジしていきそうだ。
また作品が簡単に売れなくなってくると、美術は言説を必要としてもくるはずだ。目利きの不在や確固たる価値付けがなされていない日本の美術界では、特にそういった活動の活性化が多少なりとも現象として現れてこないと無理ではないか。これはある意味では期待すべき状況が生まれえる事態なのかもしれない。
しかし、このとき美術内部の政治性が、人間関係で支配されてしまうことには注意する必要があるだろう。確固たる思想やアイディンティティなどが持ちにくいなかで、根拠がないがゆえに、外部を捏造すること、内側を強化しようとすることが行われるかもしれないからだ。
それはある意味で不可避的なところかもしれない。けれど、一方でそういったことに抵抗しないといけないとも思う。
伝わりやすい明確な欲望・行動力を持っている人の発言は(たとえそれが利己的なものであっても)、人を惹きつけやすい。しかし、そこでは根本的な言説の問題が問われなくなる可能性がある。今、美術で言説が必要であるとするならば、誰もが持つであろう欲望(不安に対する対策)を肯定することが根拠となるのではなく、言説を見つめる力、対話すること(つまり話を聞くこと)そのもののなかにあるように思える。