“見ること”は“食べること”であり、またそうでなく、“食べられること”であり、またそうでない。
ジャスパー・ジョーンズ Jasper Johns『スケッチブック・ノート(Sketchbook Notes)』(原著1965)
YVON LAMBERT “Andres Serrano: Shit,”
「Reply from paintings」と書きながら、写真作品について書きます。
80年代後半から90年代にモルグの死体を写した写真や、尿に漬けられたキリスト像の写真などで一躍有名になったAndres Serrano(アンドレ・セラーノ)が、パリとニューヨークにあるYVON LAMBERT(イヴォン・ランバート)にて展覧会を同時開催している。
会場を埋め尽くす人間や動物などのさまざまな糞便を写した写真。それらの写真は糞便の部分をクローズアップし、背景はカラフルな色彩が施されている。きわめて意識的な操作によって糞便の汚物性を抑制し美化させながらも、クローズアップと拡大によってベタにではあるけれども刺激的な作品を作り出すことに成功している。
これらの作品は当然マンゾーニの『芸術家の糞』を参照項にされるだろうが(『セルフ・ポートレイト』というタイトルの自らの糞便だと思われる写真を出品してることもあり)、『芸術家の糞』ではなかった生理的な感覚とそれによって新しい側面が引き出されている。
なまものとも呼べる糞便が持っている臭い、衛生、腐敗などの問題は、缶詰同様写真に落とし込まれることによって引き抜かれ保存されているが、缶詰とは違い中身が見えることはもちろん、高画質な写真の特性を活かしクローズアップと拡大によってデティールを明確に浮き立たせ、肉眼以上にしっかりと観察・確認できることが大きなエフェクトを作り出している。
見る者にはその強烈な映像により“胃もたれ”にも近い不快な感覚を、見た後も引きずらせるだろう(実際僕はあまり糞便系に得意でないので、何日かこの強烈な感覚を引きずってしまった)。この排泄物の写真を見ることによって引き起こされる“胃もたれ”という生理的で抽象的な感覚とはいったいどのようなことを示しているのだろうか。
それをめぐって考えてみると、この作品とは糞便そのものについてというよりも、むしろ“消化”とは何かについての作品といえるのではないだろうかと考えた。
食料が動物に食べられ、消化され、排泄されることによって、糞便とははじめて糞便となる。糞便は食べた物のノイズを完全に消すことはない。つまり原材料(食料)と加工過程(消化)のなにかしらのさまざまなノイズを残した加工品であり、そのノイズを抜きにこれら糞便の写真を見ることはできないだろう。
これらの写真が、作品=商品であるように、これらの糞便もここでは、作品=商品の大きな部分となっており、その中で糞便は作品=商品の生産過程(排便と撮影の2つのプロセス)を、見る者に強制的に想像させる力を持っている。その意味でこの作品はプロセス・アートともいえる。消化=加工過程の痕跡として現れる糞便の形体・色彩・質感などの特徴は、本人(もちろん人間に限らず)がコントロールすることができない、本人も知らない本人の特徴を(体内環境、健康状態、食生活、肛門の形状など)明確に指し示している。だから、そこで見る者に観察・推察されるのは、写っている糞便そのものというより、糞便に現れるさまざまな特徴(食べ物と加工過程の差異に生まれたノイズ)とタイトルで示される排便した者や糞便の状態などとの関係性だろう。
そういった中で、ここではもう一つの“消化”の問題が関わっているだろう。それは見る側の問題だ。つまり先述した僕の“胃もたれ”にも近い感覚のことだ。汲み取りの業者、糞便愛好家、動物学者などでなければ、この展示は多少なりとも“胃もたれ”(本当の胃もたれではないが、それに似た内臓にくるような不快感の持続)を引き起こすだろう。その生理的な不快感とは、冒頭に引用したジャスパー・ジョーンズの文章にあるような、“見ること”と“食べること”、そして“食べられること”のアナロジーを、身体感覚に直接訴えかけることで実証しているのではないだろうか。
二段掛けで、ほぼ隙間なく壁を埋め尽し展示されている写真群は、見る者に、糞便に飲み込まれる(“食べられる”)感覚を生み出しているようだ。そして、見る者のなかに生理的なエフェクトを感じさせながら、作品としてどのように経験化させるのかという、もう一方の“消化”の問題がこの作品では特異なものとして見えてくるだろう。
作品を鑑賞することは少なくとも作品のメッセージを飲み込むことだ。誰がどうみても糞便にしか見えないのだから、この作品のメッセージは作品を見た誰もが飲み込まざるおえない。この“見ること”と“食べること”に伴う二重性を含んだ実験は成功している。
消化の悪いもの、もしくはクドすぎるものを食べた後の、あの“胃もたれ”は、その胃にかかっている負担とともに、視触覚的には確認することができないにもかかわらず食べ物がまだ体内にある(!)ことを確信させる。
この写真群を見た経験は、それが記憶によってフィードバックされるので、あの食べてはいけないものを食べてしまった後悔にも近く、さらに、その消化器官にのしかかるあのストレスのような不快感によって、まだ体内にあの作品が残っていること、そして私は食べてしまったのだということを実感するはずだ。
※このジャスパー・ジョーンズ言葉は
Nobody Told You のブログからペーストさせていただいた。