あまりに書いていないので、たまには書いてみようかぁ〜。
修了制作展も終わり、5美大展にも出さない僕は、なんだか日々ピンぼけな毎日を過ごしている。
最近の収穫といったら、今さらロード・オブ・ザ・リングの1部と2部を見たことくらい。ああ、あとワコウのフィオナ・タン、小山のシャロン・ロックハートは、なかなかいい展示だった。
話はずいぶんと変わるが、最近日曜美術館で「熊谷守一」が特集されていた。何の気なしにそれを見ていたのだが結構面白かった。
彼は15坪の自分の敷地からほとんど出ない生活を長い間していたらしい。
彼の制作における思考は、自分の目で見えるもの、経験していることから出発している。けれど、絵画や思考は個人の物語や、リアリズム的なものではなく、抽象的な思考に向かっている。
彼の作品からも個人的な物語が見えてくるというわけではない。しかし、作家が生きていた世界とその単位みたいなものは見えてくる。けれど、それも描かれている対象だけを見ていれば何でもないものと言えるような気がする。
例えば火葬場から帰ってくる家族を描いていても、それは日常と何も変わらない劇的でない風景として見えてくる。
馬を描いても、人を描いても、虫を描いたとしてもそこに物語があるというのではなく、絵画を、もしくは熊谷が見ようとした世界を見るということの魅力があるというように思える。ありがちな言い方になっているかも知れないが。つまり抽象的な喜びがある。
僕は子供の時にもすでに過去のこと、をよく思い出そうとしていたような気がする。
前に、このような感情に捕われたような気がするのだが、あれはどんな時に感じた感情なのだろうか?
子供というのは、環境に対する感受性が異常に強いのは確かだと思う。
ある体験によって引き起こされた感情、しかし少し時間が経つと体験した出来事は忘れてしまい、体験した感情だけは残るということがある。人はそのような感情の経験を多く持っているのではないか。
僕が思うにその出来事が忘れられて、感情だけが残っている非常に抽象的な記憶、非常に抽象的な感情というものは、非常に豊かな経験かも知れないと思う。
これは、それこそトラウマや性的なものなどの簡単に物語化できない感情のように思える。純粋に人をわくわくさせるものである。
美術とはこのわくわくさせるものが一番重要なのだ。わくわくさせるというのは常に新鮮さを持ってたちあらわれてくる。
例えば商業的な写真や映像は、この抽象的な感情が完全に様式化されている。日本のMTVなどを見ているとその映像の様式化のアーカイブ化に驚かされてしまう。そこでは、感情は物語化されており完全に完結している。
熊谷守一の画家としてのスタンスは、素朴ではありつつも魅力的なものである。実は画集を見る限りでは評価されるのはわかるけれどそこまですごいとは思えなかった。
だが、彼の絵を実際に3枚くらい見たことがあるが、小さい作品であるのに非常に強い作品だと思えた。色彩や線が独特の、こういって良ければエロティックな感覚を持っていると思った。
なぜ彼のような画家が現代では存在しにくくなっているのか。なんでもないなにかを描き、そこに物語が付与されることのないのに魅力的な絵画。
絵画の魅力とはたぶんそんな難しいものではなく、直感的に感じる魅力なように思える。どんなに高度なものでも。
もちろん、絵画でなく現代美術であればそうとも言えない。つまり作品を一つのテキスト(読み物)として考えるということの必要性もまたあるからである。
そういった中で、熊谷のような画家であるということは、現在はかなり困難である。絵画はもはやメディアとしては時代にそぐわぬものとなっているからである。
そういった中で自分をしっかりと持たなければならないだが、自分は何を見つめて、気にして、いくべきかということを考えたりするのは当然なことであるが。
僕は熊谷守一がどのようなことを気にして生きていたのか知らない。しかし大震災の時に、トンボが飛んでいることを気にしていたくらいの人だから、多分生きることに必要なことを強く気にしている人間ではなかっただろう。(昨日見たトップランナーにでていた江國香織が、私は生きることの必要なことにあまり興味がないのだ、と言っていたのだけれど。)
僕達が作家であるに際して(自分の作品を作る、考える欲求に対してある程度自覚的であるということ)に、気にすることが現実的なもの、概念的なもの、想像的なものがあるとして、それを超越的な位置から見たいと思う人と、現実的な自分の位置から見たいと考える人がいるような気がする。(う〜ん、ずいぶんと適当な言い切りですので、適当に流して下さいね)
けれど、それは作品に如実に反映される気がするし、現代の作家を考える上で面白いような気がする。