エドワード・ホッパー(Edward Hopper)の「Office at Night」(1940)は非常に現代的なリアリティーがいきづいている作品である。
この「Office at Night」は悪趣味で卑猥で世俗的な絵画に陥るような危うさを持ちながらサスペンスフルで魅惑的な非常に緊張感を持った作品である。このバランス感覚のあり方はそれまでのヨーロッパ絵画にはなかったものといえるだろう。
ホッパーは光の質感を非常に巧みに描いた作家であると思う。彼が描き出した光の質感は、フィルムに定着した光を経験し、電気による人工灯を経験し、それに鋭敏に反応したものである。
たとえばフェルメールもカメラ・オブスクラを使いながら独特の光の質感を与えているが、ホッパーとフェルメールを対比させて考えるとすれば影の考え方の明らな違いがあるといえるだろう。ホッパーの影は、事物の影というよりも影や闇そのものが自律した存在として見えてくるように思えるのだ。
天井から照らされる蛍光灯の無機質で刹那的な光は、同時に特徴的な濃い影を作り出し、ホッパー独特の不穏な空気(都市の孤独などとも言われる)を生み出している。窓の外から差し込んでいる外からの光と、机の上の電気スタンドの光は非常に微細ではあるが触覚な感覚が見えることに驚かされる。三つの光源の光を巧みに使うことによって、光の交差、触覚性を作り出すことに成功しているのだ。外光がさしている壁の面は、マレーヴィッチの「白の上の白」を髣髴とさせるといったら言い過ぎだろうか。
こういった光の演出は、ここで描かれているオフィス空間と深く関係し、呼応しあっている。よく見るとこのオフィスの空間はとても歪だと感じるだろう。天井はやたらと高く、そのわりに部屋はひどく狭苦しく、奥の壁は斜めに奥まっている。ドアの上に壁はなく部屋の外にある柱が見えている。別にありえない空間とはいえないがどうも歪な空間だが、それが蛍光灯の垂直な光を際立たせている。
そしてこの空間は、不安定な高さに設定されている絵の視点の問題とも関係しているだろう。その意味ではマネを意識させもするが、マネと決定的に異なるのは水平軸がことごとく崩されていることだ。強い垂直線はいくつも存在するのに対して、まともな水平線が一本も存在しない。(あえてあげれば画面右下にあるサインだろう。)外から差し込んでいる光も左上がっているし、机、チェスト、イス、タイプライター、机などの影、床面、すべて斜めに傾いて描かれている。
それは単に空間が歪んでいるという問題ではなく、斜めの視線の意識的な導入しているともいえる。(映画監督であるヴェンダースがホッパーに強い影響を受けた部分でもある。)ホッパーの多くの作品は強い直線な意識を持ち、水平線が傾いても強い垂直線が存在する。ホッパーのヨットの作品は逆に強い水平線が引かれながらヨットの垂直線が傾いている。この水平と垂直の拮抗がホッパーの作品に歪みや不安を作り出しているように思え、斜めの目線は見る者にある心理的な働きかけをする。
とはいえそれはホッパーの狙いは斜めの目線を導入するためだけではないだろう。この絵では、ドアは開けられ(さらにドアと天井の間は壁がなく奥の空間とつながっている)、書類に目を通す男性と書類を取り出す女性との関係、開けられた窓、壁にあたっている外からの光、は画面の中心を通りながら右から左、左から右へと横の流れを作っている。それは画面の両側にある何本もの強い垂直線の視覚的な縦運動とはことなり、ドアと窓、二人の人物、廊下と部屋と外などの関係性によって生み出される横の運動なのだ。その関係性を見せるために、安定した水平線による視覚的な連続性は崩されているといえるのではないだろうか。