昨日、12チャンネルの「ワールドビジネスサテライト」という番組で、小泉純一郎、亀井静香、藤井孝男、高村正彦が生出演していた。この前は「ニュース23」にも、この四人が出ていた。当然選挙が近いからである。
それを見ていると面白くなくはなかった。なぜなら、思った以上に現在の日本の状況を、ある意味自分の実感を伴いながら、政治家、専門家達の話で聞くことができたからだ。
日本に住んでいる僕にとって、美術というなんだか社会的なものとは関係のない、普遍的なものを追求しているようにみえるものが、政治の話と大して印象が違わないものだった。
しかし同時に、政治家と作家とはやはり役割が違う、ということにも改めて気づかされる。
政治家は基本的に結果を出す為に従事する。
いかに日本を良くするか、いかに日本経済を立て直すか。そして、いかに国民の支持を仰げるのか、これは現実的な問題からある意味シビアな世界だろうと思う。
作家はそのような直接的な意味で、国民達の生活が実際に改善するような結果をつくり出す、理論も作品も作らなければいけないわけではない。
しかし美術にたずさわる者の中で、美術の有用性について考えている者がいる。これはキュレイターや一部の作家に多いと思う。また、現在は美術を使えると考えている人達も多いようだ。
そこですぐに思い付くのが「癒し」かもしれない。もちろんこれは、現在の美術で顕著なものがということだ。
「幸福」や「ハピネス」、「ユートピア」、「スローライフ」、様々なメディアのなかで、このような言葉を一日に何回かは耳にする。
展覧会でも、そのようなタイトルやテーマを使っているのが、世界的にみてもここ4、5年増えてきている。
「幸福」、「スローライフ」、「ユートピア」このような言葉と一番近いところで生活していうのは芸術家である、ある意味でそれを実践している人々、というのが社会一般の通念であるようだ。
それは、固定観念であり、偏見にも近い幻想でもあるが、かといってそれが全く間違っているわけでもないのかもしれない。
そういった意味で今、アートを取り上げている、もしくは注目している企業は多い。
広告としてのアート。
CM業界では、ショートフィルムが流行っているらしい。そこでは蜷川実花などの普通CMを作らないようなアーティストが監督として起用されている。
これらのショートフィルムでは、いわゆるCMというのではなく、作家がかなり自由に作品を作れるらしい。村上のヴィトンを思い出してくれれば簡単に想像がつくだろう。
一般のCMのような商品が映像に強調されまくるのではなく、蜷川実花の世界観の中に商品が存在する、という感じになっているらしい。
新商品の新しさ、インパクトを出し続けていくことによってリピーターを増やしていくのはかなり厳しくなっている。また質の均質化によって商品そのものに突出した魅力もかかげることができない。
そこで企業がアート的な思想、世界観を提示していくことによってしっかりとリピーターを増やしていくというのが、そこの会社の人の意見だった。
「ワールドビジネスサテライト」の途中のCMでも、ポカリスエットのCMで篠原牛男と福山雅治がボクシングペインティングをしているのが流れていた。
確か最近のポカリのCMのディレクターは佐内正史がやっていたと思う。
ところで、そういった形で美術が社会に機能していくことに対して、僕は既に何も言えた立場ではないし、何も感じることができない。それでいいと思っている。
しかし、政治家と自分をくらべるのではなく、中小企業の社員、もしくは地方者としての自分と考えると事はそのような良い事ばかりを考えることができないのかもしれない。つまり、普通の作家達は、この先どうなるのだろうかという問題である。
もう一度政治の話に戻す。
この出馬している4人の政治家の話を聞いていると、先ほどの言った通り美術と大して問題が変わらないところがある、ことに気がつかされる。
それは、国内的に見た弱者と強者の関係と、国際的に見た弱者と強者の関係について、今後どのような政策をとっていけばよいのだろうかと言うことである。
この4人のなかで、小泉はダントツの支持率をもっている。それは、多分彼がバカ殿ぶりであるがゆえだろう。もちろん、小泉がバカであるという意味ではなく、バカ殿ぶりを振る舞っているということにある。これを藤井はヘッドホン政治と呼んでいた。ヘッドホンで自分の聞きたい曲、聞きたい言葉だけを聞いているような政治と言っていた。
バカ殿は、ある部分の現実しか見ないで、強気な発言ばかりをする。強気な発言と見ない部分は見ないことによる切り捨ての選択、ここに世の中の人達は希望を覚えたのである。石原にしても、彼は完全に自分の立場からしか判断しない。それが逆に、日本を変えてくれるのかもしれないと感じることができたのだ。
しかし今は、ほとんどの国民は、小泉を呆れながら支持しているといった感じだろう。他の誰がやってもそうなんでしょと思っているのもあるだろう。
ここが、アメリカの国民と日本人の全く違う性質なのだなと、ここ1、2年強く考えさせられる。
呆れながら支持することを、アメリカ人はまずしない。アメリカ人は、政府が出した結果に対して非常に厳しいと思う。まあ、ここ何年かのアメリカの状況がそうさせているのかもしれないが。イラクとの戦争が始る時は危険だとも感じたが、もしかしたらだが、今は日本のこの否定しながら肯定するという状況が、ヤバいなぁ、とも思わされる。
アメリカの国民も、結果でそんなに簡単に意見を変えるなよと思わされるが、ある意味で国民が考え、国を元の位置に戻そうとしている意志。民主主義的な自覚の高さというものがあるのかなと思う。
しかし同時に、国民レベルで考えた時、大衆とは学習することをあるものなのだろうか?と矛盾した気持ちを持ってしまう。考えているのではなく、反応しているだけなのかもしれないと。
まあそれはよいとして。
小泉の話を聞いていると、彼は強者をどうするのかという観点で政治を動かそうとしているのがわかる。
ある意味で現在そうせねばならない理由もよく分かる。強い者が強くなければ日本は危ういと感じることは、僕にもある。
その意味では、亀井の弱者主義的である。弱者の視点に立って行くという立場をはっきりとしている。弱者を見ていくというのは僕にとっては、重要なことに思える。しかし、非常に保守的な見解を見せ、右的な考え方だった。右的なものが悪いとは一概に言えないが、日本特有の閉鎖的な思考の様に感じられた。自立できづらい国家である日本で、そのような保守的な見解では未来の展望をどうしても描きづらかった。
藤井は中国を見て、製造業再生を試みているが、今から製造業かよと思わなくもない。しかも中国がそれほど日本に良心的な態度でこれから接していく(第二のアメリカ)、ということに賭けるのは、余りにも心細い希望である。
高村は、堅実にやっていく、バランスをとっていくという姿勢をもっているが、今世界の状況を見ていても、このあらわになってきている強者と弱者の緊張関係のなかで、彼にゆだねるのは少々心許ない気がしないでもない。
まぁ、僕は政治の事はよく分からないから、こんなに簡単に断定してはいけない。ここは適当に受けとってもらいたい。
だが、現在を見ていると「強い者は強い」ということに依存しないとやっていけない世の中になってきているということはわかる。
強いと思っていた者が、この不況などでバタバタと崩れ落ちていった。強いものが強くないというのを見せつけられてきたのが、ここ10年の日本だろう。「強いものは強い」この同語反復的な言葉が、現実にある意味での安定をもたらすことは誰しもが感じていることだと思う。
この不安的な中で六本木ヒルズが建った。正直六本木ヒルズがが、強くなかったら困ってしまう。
そして、その強いところが、「スローライフ」をもっとも打ち出し、そのシンボルとなろうとしている。
今、美術は六本木ヒルズと二人三脚で歩いている。美術もまた、強い者が強くなければならないということを突き付けられている状況にある。
しかし、見ているとこの僕でも現在における「強い者」の落とし穴はかなりあるように感じられる。アメリカを見ても、六本木ヒルズを見てもだ。そして、弱いものというのはそれによってかなり振り回されていることもよく分かる。
しかし、それを否定できない立場に立っている。
作家は、自分も強いものの様になるのか、強いものと同盟国であると叫ぶのか、もしくは、「弱いものも強い」になるか、それともドロップアウトか、のどれかである。
「弱いものも強い」これは、矛盾している言葉だが、「ブサイクでもモテル」と言ってみると分かりやすいのかもしれない。
中小企業や、地方者などの現実的な弱者よりも、弱いということが強い(もしくはモテル)ということになり得ることは十分にありえる話だろう。
こんな話をするのは、多分勝ち負けにこだわれいいたいわけでも、強者に負けるなぁとか言いたいわけではたぶんない。宇多田ヒカルの歌ではないが、幸せになろう それは当然の野望だと思うからである。
また、漠然とした大きな話しかしていなく、作品や作家、理論に対しての分析や、説明を怠っているのは、問題であリ反省しなければならないと思っている。
しかし、なににせよ体力と頭が追い付かない。
まあ、コラムなんだから気軽に書けばいいんでしょうが、ついつい妄想がどんどん膨らんで・・・