アメリカの抽象表現主義は、アメリカの原始的な土着文化をかなり基盤にしていたという事実がある。
実際ポロックのドロッピングも、インディアンの砂絵の呪術的な意味みたいなものと深く共通する部分があった。
第二次世界大戦が、作家達に与えた心的影響も考えられるが、彼等はかなり悲劇的なものを信仰していたし、インディアンのシャーマニズム的なものなどにも傾倒していた。
もちろんそこには、ヨーロッパのような歴史を持たない土地で、またシュールレアリスムに影響を受けた作家達が、地に根付いた最先端な芸術作品、をつくり出す為の戦略であったかもしれない。
しかし、僕は単純にクールなイメージがあったアメリカのモダニズム美術が、実をいうとそのような形式的なものでは回収できないうさん臭いようなものを持ち得ていたことに、意外な感じがして、うれしくなった記憶がある。
けれども同時に、インディアンのシャーマニズムと言われたところで、またジャクソン・ポロックが絵を描く時に何時間も、床の白いキャンバスを前にして瞑想し、制作を始めると、あたかもトランス状態に陥ったようになり最後まで中断しなかった、というオカルトチックな逸話も、どうしても距離を持ってみてしまうものではあった。
このマクドナルドのイスといっている時代に、「霊的なもの」、「信仰的なもの」という問題は、芸術の中でどのように移り変わってきているのだろうか。また、日本における心霊的なものというものはどのようなあり方で存在していたのだろうか?と考えてみたくもなる。
けれど、そんなことをいっている僕ってちょっとヤバいんじゃないの?と思わなくもない。
この世の中で、神話的なもの、霊的なもの、というものが生活の中、もしくは僕達の心の中にある程度かも知れないが、根ざしているものなのかも知れない。
考えはじめるとそういった事柄も、僕が思っているようなものとは少し違うものなのではないだろうかと考えはじめた。
最近妙に「日本的」なるものを意識させられる作品や本を読むことが多いからか。
ジャクソン・ポロックは、白人であり、それがインディアンの砂絵でアイディンティファイしていると言われても、どこかうさん臭い気もする。だが、信仰というものはかなり環境によって作り上げられるものであったのは確かだろうし、そういうものが作品に影響していないとは考えてはいない。
ここ日本は、自然や土地などを神と考えることが多かったし、それは何となく自分の実感の範囲を超えていない。
安易に日本的なもの、神秘主義的なものに傾倒するのはやばいが、かといって、山岸涼子などの漫画や、柳田国男の本を読んでみると、インディアンのシャーマニズムやキリスト教の話(例えば最近ルイス・ブニュエルの「銀河」という映画を見たが)よりも、実感を持って理解できるような感覚を自分が持ち得ていることに気が付く。しかし、日本的なものの話が一番面白いかと言われるとそうでもない。
また、柳田国男の言うように、日本であるからといって、「日本的」というものが失われないかというとそうではないと思う。すでに、日本的なものというものを僕自身はずいぶんと失っているのではないかと思うし、日本的なものを失っきた歴史の過程の中で、僕は生まれて育ってきている。それが必ずしも悪いことではないだろう。けれども、そういう感覚に目を向けないというのもまた違うのかなという気がした。
僕がこう思ったのは、今年は盆について、よく思い出したり、考えたりしたからか。