今日のコラムのとっかかりを2ヶ月程前に、ある作家さんからこんな事を言われた、その問題からはじめてみても良いように思える。
「アニメって、今もう必要無いじゃないの?現在におけるアニメの必要性って何?」
ぼくはその時、まともには何も答える事が出来なかったのだ。
最近ハリウッド映画では、未来も宇宙も超人もCG等の精度が上がったことによってずいぶんと描けるようになった。「ハリーポッター」も「ロード・オブ・ザ・リング」も、「猿の惑星」も、ディズニーアニメと変わらないくらいのファンタジーの世界を描くことに成功している。「スパイダーマン」や、「マトリックス」等の作品も簡単に映画化することができるようになってきた。
これはある意味で、押井守がこれからは映画がアニメのようにすべてが計算されて、考えたものがそのまま映像になる時代の到来ということにあたるだろう。
そして、アニメもまた、CGを多用しはじめている。すべてがCGによって製作されているアニメもいくつも出てきている。映画とアニメの違いはますます薄いものになってきているのだと言える。
日本でも、「ドラゴンヘッド」が、映画化されたことからしても、アニメの特権的な世界観である、SF、ファンタジー的世界観は、既に映画も同等なものとしての技術を持ち得るようになってきているわけである。想うにこれは、大友克洋的な世界観=アニメの特権というものは、完全に終わりを告げたことになったと考えている。
では、アニメの特権的なものは、あとは「フェチシズム」的なものしか残っていないのだろうか?
たしかにおたく達にとって、「人」や「日常」を「理想」の現実を作りかえることのできるアニメやゲームはたぶん特権的なメディアとして成立していると思う。また、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」も、「パトレイーバー2」以降の押井の作品も、フェティスズムしかないように思うところがる。
ぼくには、アニメのフェチ的な性質が悪いかどうかはわからない。しかし、問題なのは、フェチは作品における要素をことごとく固定化してしまうということだと思う。こういう世界、こういうキャラ、こういう物語、こういう展開。これが、悪しき作家性として君臨する場合もある。これが著しく作品を面白くしなくなる原因の一つだと思ってしまう。
ここで、それを拒み続ける不器用な作家がいる。高畑勲である。高畑勲は、アニメにおける作家性を断固として拒否しているように思われる。だからこそ、彼の作品は動き続け、展開しているのだと思う。彼の作品で一貫しているのは、作家性ではなく、それが愚鈍かも知れないけれども、彼なりの理念がそこにあると言うことである。もちろん、高畑の話をするのは、すでに時代遅れで、アニメの事について語るには的外れなことを言っているのかも知れない。だが、この現在においても、高畑勲の作品に必要性と未知なものを感じることができるのだ。
先週金曜日、4チャンネルで「螢の墓」がやっていた。多くの人がそうだと思うが、あれほどつらいアニメ映画を観たことはないとおもう。
それは、物語によってであろうか、そうかも知れない。しかしそれは、すじとしての物語ではなく、徹底された高畑の正確な表現、完璧なまでのリアリズムにおいてである。
まるでカメラアイが、本当にあるかのような視点の移動。表情、ものの描写。日本画、戦争画等の絵画、映画をかなり取り込んでいる構図。
そして何よりも光である。光の演出で物語を見せるということは、まさに映画とはりあう高畑の意気込みを見ることができる。「光を巡って」、それは人を惹きつけ続けるものとしてでも、映画における特権的なものであったものである。ヌーヴェルバーグの連中は、印象派の正統な継承は、まさに映画であると言っていた。まさに、アニメにおける光の問題、それを真剣に考えたのは、日本アニメの中では高畑をおいていないかも知れない。
とこで残念ながら、ぼくは「螢の墓」以前の高畑の作品を見ていない。また、高畑勲についてのことも、全くに等しいほど知らない。だから、このリアリズムアニメの極北といえる「螢の墓」から、「ホーホケキョ となりの山田くん」まで、についてどのようなことを考えたのかを書いてみようと思っている。そう、ずいぶん偉そうに書くわりには、これは憶測である。
「螢の墓」で印象的なのは、絵画的なまでの画面の緊張感と、場面の展開のさせ方があると思う。この場面の展開というのは、ワンカットのカメラの移動の中で、時間の移動が行なわれたり、回想になったり、幻想の世界へと移動している。この幻想的なものに持ち込む時に何度か、非常に効果的に使われるのは、紅い光である。
また、主人公男の子と現在の東京の風景を重ね合わせたりもしている。
ブルジョワの女子達が戦争が終わり自宅に戻ってきて、ひさびさにレコードを聞きながら、その音楽に合わせて右にカメラが持っていくと二人が住んでいた洞くつが映し出されるこの1シーンは、悲しくととても美しいものだと思う。
つまり、ここで示しているのは映画的リアリズムに徹している高畑は同時に、げんじつではありえない絵画的な時間の移動、幻想と現実を共存させるようなやり方、回想と現実の風景の重ね合わせなどを巧みに使っていることがわかる。
「螢の墓」では、この場面展開が日本の絵画的なものもかなり意識されているように感じられた。
こう考えてみると、「おもいでぽろぽろ」が、これをさらに押し進めていることがわかる。つまり、彼はリアリズムを使って映画に対抗していこうとしながらも、映画には出来ないような表現というものも模索し始めていたのである。
あのアニメの原作は、子供の時だけが描かれている。それがアニメでは、それを思い返している大人である自分までが物語の中に組み込まれている。
この大人は声優である今井美樹を意識したような、リアルな人間であるのに対して、小学五年生であるこの女の子は、非常に漫画的である。アニメ的アニメその世界と、リアリズム的アニメとその現実的な世界、の共存が行なわれていた。これはたぶん意識的なものだった。けれど、このアンバランスさに、少し戸惑いを覚えたのは確かだ。
次の話も狸と人間の世界を描いている。これは狸というものがいかにも漫画、アニメ的に表現されている世界(ぼくはまだ、これをどう呼んで良いのかわからないでいるので、仮にこういうとすれば程度に思ってほしい)と、人間世界をリアリズム的に表現されている世界とみると、この映画もまたアニメの有り様について模索している作品だということがわかるのだ。なぜ高畑は、こうまでもしてリアリズム的なものにこだわるのだろうか。それは、夢だけの夢では嫌なのだ、ということではないかと考える。 夢だけの夢、それでは、結局アニメが社会と切り離された敢然な娯楽、もしくは自慰行為の産物となってしまう。そうではなく、何か現実とつながっている、ある健全さを保ちえた、人の心に訴えかけることのできる作品を作らなければならないと考えているのだと思う。高畑のエゴがそうさせるのである。
けれど、映画的リアリズムの後追いではアニメは限界が見える。そう考えた高畑はリアリズム的なものを、漫画、アニメ的な世界に入れこんでいくという「螢の墓」とは全く逆の手段を取ることになる。それが「ホーホケキョ となりの山田くん」ということができるだろう。「ホーホケキョ となりの山田くん」は、ジブリにおける「螢の墓」以来の傑作である。それはすでに物語のすじにあるのではない。このアニメはよく観ていると、ゴダールの「映画史」ではないが、高畑の「漫画、アニメ史」となっているような気がする。
この映画は、紙とペンと鉛筆と消しゴムの絵によって始まる。そこに丸が描かれ、そこから絵書き歌のように線が描かれていき、おばあちゃんやイヌが描かれていく。そして、はじまりの部分では四コマ漫画を意識した、極端なカット割り。
両親の結婚式での回想は、おばあちゃんの挨拶の声をナレーションとし、そのなかであらゆる場面を移動していく主人公たちと、様々なものをみせていく、まるで山水画から絵巻物などを見ている様でもあり、流れるような展開はまさに傑作と呼べることができる。
人物だけを描くことによってペラペラ漫画的なものを導入したり、少女漫画を書込んだり遊び心も気がきいている。
そしてとてもすばらしいのは、テレビ映像の描写の仕方である。
また、暴走族に注意する場面は、突然描写が変わる。それによって漫画でしかなかったキャラクター達が突然現実の人物に当てはめられるようになる。
この作品でも光についての高畑なりの挑戦を見ることができる。余白の多いこのアニメでは、僕達はまるで光りそのものを見せられていることを知る。
描かない、余白を作ること、水彩、墨のに透明感を持った色彩やトーンによって、高畑はアニメにおける、アニメにしか出来ない光を、画面に充満させることに成功したのである。
それにしても、高畑のこのアニメもまた「螢の墓」に劣らず、非常に正確な描写、表現によって作りこまれている。いかに、4コマ漫画を題材にしても、高畑のリアリズム的視線は衰えないということに驚かされる。
もし、高畑の事をいくら良く言ってもぼくは生理的にダメなんだという人がいるとしたら、音を消してみるといい。この作品のすばらしさはそれでも十分に耐えられるものである。