ダルデンヌ兄弟の「ある子供」(2005)について。彼らはこの作品で二度目のカンヌ映画祭パルムドール大賞を受賞している。(一回目は「ロゼッタ」)
この映画の話はとてもシンプルで、窃盗などをして生計を立てていたブリュノがソニアとの間にできた子供を闇取引で売り払ってしまうことから、徹底的に窮地に落とされ最後には警察に自首をして監獄に入る話だ。
といっても彼らの映画の最後には和解というエンディングが用意されている。ソニアは自分の子供を人身売買にかけたという絶対に赦すことのできない罪を赦し、ブリュノと泣きながら抱擁しあい映画が終わる。
この映画の中ではブリュノをはじめ、子供たちがよく動き回る。その動きは少しオーヴァーかと思われるくらいに過剰に表現されている。それはダルデンヌ兄弟の映画がすべて手持ちで撮影されたことも大きく関係しているがそれだけでは収まらない。
主人公たちは都市の中で動きを抑制されることなく、盗みを働き、走り回り、動き、はしゃぎ回る。その運動が主人公の若者たちが都市の社会的なルールにとらわれることなく「自由」を獲得しているという事ができるだろう。
しかし赤ちゃんができるということは、赤ちゃんのことを考えて動きは制御される。社会的にも大人としての責任が生じることによって行動や動きは制御されることになる。ブリュノは動きが抑制されることを拒み、ゆえに子供を売り飛ばそうと考えるのだ。社会的なルールに従うということは、動きを抑圧し生活するということである。
だからこの映画の中で主人公などの子供たちが過剰に動き回るていることは、大きな意味を持つ。そして最後に監獄に入れられるということは、身体の運動や行動を強制され抑制され、教育される場としてみることができる。
ダルデンヌ兄弟の映画では、このリテラルな意味での身体の運動というのは主題としてずっと大きな位置を占めている。それは、映画の問題としてとても興味があるのだけれど、今回の作品はどうも腑に落ちないところがあった。
それは一つにどんなにブリュノが窮地に落とされたとしても怖さを感じなかったということ。そしてあまりにも明確な答えとして見えすぎているような気がした。ブリュノが反省すると言うことは当たり前すぎる。そして反省した同時にソニアがブリュノを赦しすべてが丸く収まる兆し(つまり過去の呪縛から開放される)が作られるというのはいくらなんでも都合が良すぎるんじゃないのだろうか?実際、ブリュノは大人になりました、良かった良かったとなるんだろうか。
この映画では、カメラはずっとブリュノ一人を追い続ける。どんなに窮地に陥ったとしてもカメラは変わらずブリュノを見守り続ける。これはどこまでもブリュノの映画なのだ。だからどこかですべての出来事がブリュノの成長のためを示すための物語に見えすぎる。
ブリュノがどんな過ちを起こそうとも、どんな不可逆に見える出来事が起こったとしても、それは必ず元に戻すことができるような感じが見ている途中から伝わってきてしまった。だからぜんぜん怖くない。ハラハラや苛立ちを覚えない。
だから、この映画にわかりやすいやさしさに満ちすぎているような気がしてならなかった。
ダルデンヌ兄弟が監督した「息子のまなざし」。それは職業訓練所で大工仕事を教えているオリヴィエと、そこに入所してきたオリヴィエの息子を殺した少年との物語だが、この「ある子供」とは伝わってくる事柄が明らかに違うように思えた。
そこでは、息子が殺されたという不可逆的な出来事というものがけして消えるわけない上で赦すことであり、オリヴィエのアンビバレントな感情、行動はわかりやすい回答や共感を得られるものではない。
また、犯罪を犯した少年の存在も強く浮き立ってきていてけして、オリヴィエだけの物語としては見えてこなかった。
