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投稿者:石川
 お二人のコメントを含めてこのコラムが非常におもしろいなぁと思って読まさせていただきました。
 僕自身はオートポイエーシスもユクスキュルについても詳しくない。もしかしたら、誤読と誤解が多い発言になってしまうかもしれません。また少し話を簡単にしすぎてしまうかもしれません。
 僕は、お二人の意見が「北風と太陽」という寓話を思い出させました。
 北風と太陽の話は誰しもが知っている話だと思いますが、北風の風の力でもって、コートを吹き飛ばすもくろみは失敗に終わり、太陽の暖かさでもってコートを脱がします。ここでは物理的な力、現実的な圧力ではなく、人間の生理的な無意識にある働きを作り出す事によって人間を(人間の気分を)コントールする話です。
 おそらくですが、「一つと沢山の椅子」の方が、「主体」と「気分」の関係について言われている事にちかいのではないかと思いました。
 しかし、沢山さんはこの寓話をこう考えたのかもしれない。その人間はもしかしたら日焼を嫌ってコートを脱がない事は充分にあり得るという事です。つまり一つのエフェクト/メッセージを、主体が享受する時、主体には複数の理由/気分があってそのどこにおとし込まれるか分からないと言っているんじゃないかと。それによってエフェクトは意味を大きく変えるのではないかと。つまりそういった人間の散漫さを考慮に入れなければならないのではないかと。
 しかし、「一つと沢山の椅子」は、「作り手」の話をしています。それは何でしょうか?おそらくですが、彼はこの「北風と太陽」の物語を人間の視点からもう一度物語る必要性があるのではないかと。  つまり、風が吹く、もしくは太陽が照る時に、この人間はほぼ無力です(この寓話が旅人であるということは重要です)、しかし彼が旅人てあったとしてもそういった抵抗を受ける場合に人間には、家を建てる等の技術的な発想と要請が生まれているという事です。その技術の発想は決して「気分」では生まれない。と言われていたのかなと僕は解釈しました。簡単に書きすぎていると思いますが。
投稿者:沢山
「気分」ということについて少し訂正させてください。僕がユクスキュルにもっとも関心させられたのは、ユクスキュルが生物にたいして「気分」という言葉を使っていることです。当然これは本来人間にしか当てはまらないような極めて人間的な形容です。だけどユクスキュルがどうやっって生物の「気分」を検証するかというと本文のヤドカリの実験のようなことをするわけです。これは人間に相当させてみた場合ほとんど人体実験に近い(笑)つまりユクスキュルのいう「気分」とは僕たちが通常使っているような散漫な形容詞とは違って、ほとんど強制的な、かつ劇的なものです。だけど僕たちは悲しいことに制作者の意図通りにイスとしてデザインされたものはイスとして扱うでしょう。ヤドカリほどに劇的に目の前にある事物が変容してしまうわけではないし、主体の内実が変化してしまうわけでもない。だけど僕が言いたいのは主体が「気分」をコントロールするわけではなく、「気分」が主体をコントロールする場合もあるということ。つまり事物が主体をコントロールするのか主体が事物を決定するのかではなく、そこに「気分」や「感情」を主体と切り離して勘定に入れなければそもそも主体対事物(客体)というような図式は成り立たないのでは、というのが僕の理解です。
投稿者:一つと沢山の椅子
ちょっといくつか疑問に思ったことがあるので、コメントします。
「生物を観察対象としてだけ、つまり客体として扱うことに終止していては決してその行動原理は理解できない」というのユクスキュルの意見は、了解できます。
だけど、沢山さんの書き方だと「主体」や「気分」があらかじめあって、それがあたかも自由に対象を扱えるという感じに読める。
確かに人間はそれが椅子ではなくても、その時々の「気分」でどんなところでも座れる。けれど断じて「気分」で椅子をつくることはできません。沢山さんのコラムに欠けているのは、行為者側の観点、まさしく事物をつくる側の観点です。
そもそもその「主体=気分」とやらは外界と別個に、自律して存在するほど強固なものなのでしょうか。たとえば、気分は気分それ自体をコントロールすることができるのでしょうか(自在にスイッチを変えられるかどうか)。一般に言うところの「気分」とは、微細な何かに触発され、コントロールされた結果にすぎないのでは?「主体」が「気分」でしかないのなら、なおさらこの論は成り立たないと思うのですが、いかがでしょうか。
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