これはadolph von menzel(アドルフ・フォン・メンツェル)の「William I Departs for the Front, July 31, 1870」(1871年)という作品です。メンツェルは、ドイツ印象派の代表的な作家であり、作風を見ている限りでは、マネ、ドガなどからの影響が色濃く見えます。
しかし、彼は1815年〜1905年というかなり長生きな作家でもありますから、彼の作品群を見ているとロマン派、写実主義、印象派への移行が見えてきます。
この、「William I Departs for the Front, July 31, 1870」(1871年)一見二流の印象派に見えるかもしれませんが、よく見ると彼の視点はなかなか面白い所に着目しています。

「William I Departs for the Front, July 31, 1870」のほぼ十年前に描かれているマネのこの「Music in the Tuileries」(1862年)。
なるほど、マネのこの群衆の絵に比べると、メンツェルの作品は、ずいぶんと古典的な技法を使用していることがわかります。
メンツェルの作品では一点透視法という古典的な空間設計や木々の色彩などは空気遠近法をしっかりと作られています。
それだけ考えて見ると、マネの色彩の使い方や、構図の作られ方とはずいぶんと異なります。
しかし、メンツェルのこの作品、よく見るとなんだかここの空間はずいぶんとグズついているように見えます。
見やすい構図であるように見えながらも道は群集によって完全に隠され、窓から出された鮮やかな色彩の旗の揺らめきは、一点透視法に対して、一つの抵抗を作り出している。
また、群集はただ群集というだけでなく、馬車や馬などによって行進している人、それを見ている人、ただの通行人、ビラか何かを読んでいる人や、犬を見ている子供など、がしっかりと描きわけられており、さまざまな向きや意識を持った人間が画面の中で混在しているというように見えます。マネは、逆に個々の人間のドラマ性、意識みたいなものを抑えて描いていますから、群衆と一まとまりに見えるようにできています。
また、パースを強めるはずの建物は、窓から出ている人や旗、前景に描かれている建物のドアから出てきたかのように見える人々、などによって建物の中を意識させ、見える部分と見えない部分、つまりフレームのイン、アウトを意識させて、一点透視法の構造を崩れるようになっています。
ただメンツェルのこの作品が人々の状況や旗などをしっかり描き出していますが、この作品の主題は一見よくわかりません。
描こうとした主題は、間違いなくWilliamという王族もしくは貴族ではない。しかし、それを見ている市民ですとも言いにくい。なぜなら群衆が一まとまりにすることができない人々の意識がバラバラに分割されていまし、旗や並木は色彩といい面積といい非常に目立つように考えられています。モネなどは、窓からフランス国旗が出されている風景を描いていますが、この作品は風景画としてはやっぱり見れない。
彼は、このバラバラな状況を均質に捉え、絵画を構築しているのだと。彼の絵画では確かに、様々な描きわけが行われていますがそこに内容のヒエラルキーが作られていない。そういった意味では実は、マネとはやり方は違いますが、共通した視点を持ちえていると言えなくもないのではないかと考えることもできると思います。
空間や意識、運動に対するさまざまな区分を作りながらもそれを均質に強引に再構成しなおす。まるでキュビズムの先駆け的な意識を持ちえていたとも言えると僕は考え始めました。
なるほど、この作品だけだとどこまでメンツェルが確信犯的であったか疑わしいのでもう一枚ご紹介して、今回のコラムを終えようと思います。

ここでは、子供がボールと遊んだり、二人でじゃれあったり、犬も腹を見せてころげていたり、婦人たちが洗濯物を取り込もうとしていたり、洗濯物が風になびいていたりと、そこでは日常の他愛のない一瞬が描き出されている。しかしどうもおかしいのは、それらのここの一瞬が、非常にバラバラなものに見える。ここでも一体何を描きたかったのかよくわからない非常に変な絵だと思います。同じ一瞬であるにもかかわらず、中で描かれているさまざまな瞬間は、どれも意識が切断されているように見えなてきて、何気ない瞬間であるのに、一つの瞬間のようには見えなくなっています。
そして、白いシーツは、美しく風になびいていますが、これはフレイムのイン、アウト、まるで洗濯物を取り込みにかかっている婦人が舞台裏へと戻っていくかのように見えます。