●フェルディナント・ホドラー
月の写真を見たときにまず驚くのは、大気がないことによる空気遠近法の不在だ。ホドラーが描く山や湖もまた空気の不在(実際空気が薄いだろう)を感じさせる。ホドラーの描く風景画の透明感は、人間の生存不可能な場所の輝きに包まれている。
http://twitpic.com/2fhucb
もう一枚だけ。
http://twitpic.com/2fhvn2
●ポール・セザンヌ
セザンヌの 『The Bather』について少し書いてみようと思う。この作品に描かれる人間は、何処から来て、誰なのかを後ろに広がる風景からはまるで想像することができない。ここに描かれる男はまるでここに突然現れたかのようだ。
http://twitpic.com/2dn42m 10:51 PM Aug 10th Twitpicから
●サルバドール・ダリ
Salvador Dalí
http://bit.ly/bpTw0O Salvador Dalí, Brassaï
http://bit.ly/d31Lgb
●カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラ
光化学スモッグの経験とは、外に誰もいなくなる想像力と、暴力的なまでの強い光の中に見えないものを観ようとする体験だったことに他ならない。
光化学スモッグと絵画の関係 ― 意外にオルセー展でピサロの絵が頭に引っかかり続けている。ピサロ的な問題からすればこの風景は批判的な側面を持つもつはずでグロテスクな側面もみえるが、この光と煙に溢れる運動に満ちた光景に興奮も感じられるのだ。
http://bit.ly/9mhFgK
ここでは絵を描くことの生産と、都市の労働が対比的に現れているといえる。ピサロの作品を観て感じるあの生々しい光は、労働に従事しているあいだは感じることができないものだ。その光をみつめることは、光化学スモッグのそれと近いように思える。
あるいは、スーラの風景画における人の不在感と結びつく。
http://bit.ly/bqQhh4
●ジョルジュ・ルオー
ジョルジュ・ルオーの版画は独特の感覚を持っている。そこにはまさに「プレス」という問題と関わっている。ルオーの作品の多くは版画に関わらず透明のガラスに身体を押し付けて身体がペタリとくっついたような感覚を持っている。そしてそれはマチエル、絵の具の厚みとも関係する。 2:34 AM Jul 31st webから
版画は、絵の具の凹凸と銅版の凹凸、プレス、人物の圧迫感が薄い物質の中に圧縮されている。削っているのか盛り上げているのか、押さえつけられてるのか、押しつけてるのか。その拮抗した力学が、視覚的な像と版の問題として浮かび上がる。
http://bit.ly/dtuFNC 2:42 AM Jul 31st webから
版画が特に面白いのは、油絵よりもマチエルの厚みで生まれるイメージの問題が反転しているところにあり、プロセスとイメージをその反転の中で結びつけようとする所だ。もちろん油絵も面白い作品は面白いけれど。 2:49 AM Jul 31st webから
●デイビット・リヴィノウィッチ
David Rabinowitch 《Double Tuber》
http://bit.ly/colrhF 二つの形(塊茎)の接合。この地面に水平に伸びたミミズのよう、あるいはミミズの通路のような彫刻は、地面を規定にしたときの頭部のボリュームと身体の関係を鑑賞者に意識させるはず。 1:39 AM Jul 30th webから
それは、自販機の下にお金を落としたときの、あるいは冷蔵庫の下などに、物が入り込んでしまったときのそれと似ていて。 1:41 AM Jul 30th webから
Rabinowitchは、David Smithを出発点としながらも、彼の溶接の技法をごまかしといって批判した。それに対する応答としてフォルムとフォルムの接合、あるいはフォルムの創出とヴォリュームの対比などの問題は彼の中心的な課題。
http://bit.ly/cOLB0n 1:50 AM Jul 30th webから
●ロドニー・グラハム
Rodney Grahamの《Lighthouse Keeper with Lighthouse Model, 1955》(2010)
http://bit.ly/aQGmMC 3:00 AM Jul 24th webから
グラハムのライトボックスは、セットアップされた写真であり、一枚の画像をセパレイトし複数のライトボックスで提示する。transparencyの分割を強調し、一つのイメージとして統合に亀裂を入れ、物質的に不連続性を作り出す。これはまじめな異化効果というよりも彼なりのユーモアと考える。 3:09 AM Jul 24th webから
彼はセルフポートレイトの問題にこだわり続けている。自分を実験台にするということも、コンセプチュアルの伝統的な手法だ。しかし彼は写される作家像をニュートラルなものとして提示しない。この作品も1955年という設定があるように、彼の身振りの記録は役者としてイメージに従属し間接化する。 3:15 AM Jul 24th webから
しかし、この《Lighthouse Keeper with Lighthouse Model, 1955》(2010)は、オーソン・ウェルズのThe Stranger (1946)を思い出させる。 3:17 AM Jul 24th webから
The Strangerの主人公フランツ・キンドラは、ナチで収容所の考案者で米国に潜入しており、教会の古時計の修理のため(また潜伏するため)時計台にこもっている。キンドラは身を隠すと同時に、世界を(再び)掌握しようとするものとして時計台(世界を音によってコントロールする)がある。 3:25 AM Jul 24th webから
《Lighthouse …》では、灯台というもの、また灯台の中に灯台の模型という入れ子状の構造を示唆することによってそれを示している。そして、そこではグラハム演じる男は、灯台を所有している共に拘束されているという感覚に含まれている。彼の模型の制作は非常に隠された仕事としてある。 3:30 AM Jul 24th webから
その建築と身体の関係は、彼自身を幽霊化しているようにも見える。彼は、靴を履いていない。さらに床に写り込む彼自身の影が不自然に薄まっていることから、彼は建築物と一体化していると同時に、幽霊化しているように見える。 3:34 AM Jul 24th webから
これは、Bruce Nauman, Failing to Levitate, 1966.と共鳴している。
http://bit.ly/b40D86 単に椅子と幽霊的なものの関係だけではなく、作品が制作されるアトリエという場の問題とも関係している。 3:38 AM Jul 24th webから
ここでは光、熱によって結ばれているここのものが、遠近法的なものを狂わせている。靴下とやかん、電気スタンドと、本、模型の関係は視覚的に強く結ばれているが、そのことは遠近感を壊している。灯台の模型は、中心にありながらもヴォイド化しているが、これは鑑賞者の鏡像として存在している。 3:44 AM Jul 24th webから
コーヒーと光の消えた灯台、視界を失った真っ暗な窓の結びつき。 4:02 AM Jul 24th webから