昨日の日記の続きです。
御香宮神社から西へ歩くと京阪伏見桃山駅の東に「京阪バス発祥之地」の碑があります。京阪バス株式会社の前身桃山自動車株式会社は, 大正11年(1922)7月20日中野種一郎を発起委員長とする発起人13名により資本金5万円でこの地に創立され, 自動車11両を以てハイヤー営業を開始した。
大正13年(1924)10月28日社名を京阪自動車株式会社に改め, 同15年(1925)1月1日から京阪電車伏見桃山駅-桃山御陵下間0.8粁の乗合バス営業を開始した。昭和2年(1926)10月30日京阪電鉄は京阪自動車の全株式を取得, その後の京阪沿線のバス路線網拡充の基をなした。
同47年4月1日創立50周年を期して社名を京阪バス株式会社に改めた。
今は駅前にバス停はありません。西側はアーケード街ですのでバスが折り返すのが大変です。以前は伏見桃山駅に京阪ストアがあって、伏見桃山駅は「途中下車指定駅」で途中下車することが出来ました。
アーケード街に入って最初の角は「両替町通」と言います。京都の中心部にも両替町通がありますが、直接の関係はありません。角に「此付近 伏見銀座跡」の石柱があります。「銀座」と言うと東京を思い出される人が多いと思います。私が銀座という名前を知ったのが、子どもの時に父が金曜日の夜8時は三菱電機一社提供であった「日本プロレス中継」を見ていて、エンディングで日本テレビのスポーツテーマとと共に三菱のマークの丸いビルが移るのですが、「ここは銀座というところや」と聞いたのを覚えています。学生の時に行った時は三菱電機のショールームがあったので三菱電機のビルだと思っていたのですが、三菱電機とは関係のないビルです。ところで日本で初めて「銀座」が出来たのはこの場所です。
これより北方の銀座町は江戸時代のはじめ、徳川家康によってはじめて銀座がおかれたところである。銀座とは、鋳を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所のことで、特権商人によって構成される。関ヶ原の戦が終った翌慶長6年(1601)5月、家康は後藤庄右衛門、末吉勘兵衛に銀座取立を命じ、この地に四町の屋敷を与えた。有力商人の座人が集められ、早くから銀鋳造は特殊技術をもつ大黒常是が鋳造を担当し、銀座会所、座人屋敷が立ちならんだ。これが、江戸時代銀座のはじまりである。慶長13年(1608)、銀座は京都中京の両替町へ移され(のち江戸、大阪などにも設置)、伏見銀座は廃止されたが、銀座の地名を今にとどめている。
ちなみに東京の銀座は慶長17年(1612)に静岡の駿府銀座が移転したものですので、伏見銀座よりも後になります。
さらに1筋西へ行ってケンタッキーのある角を北へ行くと京都では結構残っている仁丹の住居表示版がありました。この場所は「新町五丁目」でそのように書かれているのですが、上に小さく右から「伏見市」とありました。この場所は明治22年(1889)に紀伊郡伏見町となったのですが、昭和4年(1929)に伏見市となりました。ところが、昭和6年(1931)に紀伊郡深草町、竹田村、堀内村、下鳥羽村、横大路村、納所村、向島村、宇治郡醍醐村と共に京都市に編入され「京都市伏見区」となりました。伏見市の範囲は京阪でいうと伏見桃山とその両隣の丹波橋、中書島ぐらいで狭く、伏見稲荷大社や藤森神社は昔の紀伊郡深草町になります。伏見市であった期間はわずか1年11か月で、仁丹の住居表示版もその間に出来たことになります。
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