松尾大社は京都市の西にありますが、七条通沿いに御旅所があります。七条御前通を南に行ったところに「松尾大社西七条御旅所」があります。
御祭神は松尾大神とあったのですが、おそらく大山咋神(オオヤマクイ)でしょう。
由緒は
松尾大社の御旅所で、毎年、松尾祭の神幸祭には、大宮社・櫟谷社・宗像社・四之社の神輿と月読社の唐櫃の渡御があり、5月の還幸まで22日間駐輩せられるところです。
松尾祭は、平安時代の大江匡房の「江家次第」によれば、清和天皇の貞観年中(859〜877)に始まったとあり。4月上申日に行われていた祭祀に、後世、御旅所ができ、神輿などによる神幸・還幸の両祭が斉行されるに至ったものと思われます。
さて、当旅所について、平安時代の宮中の年中行事を記した「年中行事秘抄」の天仁2年(1109)4月3日丁丑の条に、
被立岩清水賀茂行幸七社奉幣使(伊世、岩清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日) 己上、松尾稲荷共御旅所之間也
とあり、また、中山忠親の日記「山槐記」の仁平2年(1152)4月5日壬申の条に、「櫟谷之旅所」とあることなどから、12世紀の初め頃には、既に御旅所のあったことがうかがわれます。ただし、その他の史料から西七条にあったことは紛れもない事実ですが、祭祀の様子や具体的な場所などについては詳らかではありません。
江戸時代の「松尾略注全冊」に
松尾御旅所并属社所在
大宮・月読 相殿御旅社 在西七条村
櫟谷御旅社 同前
宗像御旅社 同前
三宮御旅社 在川勝寺村
衣手御旅社 在宗像御旅所同兆内
四太神御旅社 在大宮御旅所同兆内
惣神社并神供場 在朱雀村
(中略)
神輿数并駕輿丁諸村名
一 大宮神輿一基 駕輿丁 唐橋村
一 月読神号板牌一面 駕輿丁 梅小路村
牌長五尺、金銅飾具上懸明鏡
一 櫟谷神輿一基 駕輿丁 西七条東町、朱雀村
一 宗像神輿一基 駕輿丁 西七条 中町、西町
一 三宮神輿一基 駕輿丁 川勝寺村
一 衣手神輿一基 駕輿丁 郡村
一 四太神神輿一基 駕輿丁 西塩小路村、梅小路村、御所内村
右神輿六基
神号牌一面
とあり、各神輿の御旅所はそれぞれ各所にわかれており、駕輿丁の村々、そして、神輿は祭りの時以外は本社で保管、その修繕費なども各轅下で負担していました。
また「京都役所向大慨覚書」に、
一 御朱印社領他百四拾五石
境内東西貳拾五間、南北貳拾三間三尺六寸
とあり、朱印社領石高と境内の広さをしることができます。ここで特筆すべきは、御旅所でありながら朱印地が認められていたことです。これは大変めずらしいことであります。天正13年(1585)11月21日、豊臣秀吉により145石、徳川幕府のもとでも同じ石高の朱印地が安堵されていました。
明治時代には、分散していた東四社の御旅所が、諸般の事情から、大宮社の御旅所へと一箇所にまとめられ、「官幣大社 松尾神社御旅所」となりました。(以下略)
これを理解するには、松尾大社の松尾祭の説明が必要だと思います。松尾祭の神幸祭の際に、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の内、月読社を除く6基の神輿と唐櫃1面(月読社)が松尾大社を出発して、4基の神輿と唐櫃とはこの西七条御旅所に行きますが、残る2基のうち、三宮社の神輿は阪急西京極駅近くの末社の三宮神社まで、衣手社は同じく西京極スポーツセンター北の末社の衣手神社に行くことになります。
西七条御旅所がある場所は昔の葛野郡西七条村でしたので、昔の「大宮御旅社」だったのでしょうね。また、三宮社の神輿が行く三宮神社のある場所は昔は葛野郡川勝寺村でしたので、4か所の御旅所が1か所にまとめられた前は三宮神社のあるあたりに御旅所があったのでしょうか?
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