京都に帰ってきましたが、16日の昼の話です。
午後から名刺交換会に行くために東京駅の八重洲口に行ったのですが、1時間ほど時間があったので近くの神社を探してみました。
スマホのマップで調べると東京駅の向かいのヤマダ電機の南の路地を曲がったところに「豊川稲荷」というのがあったので行ってみたのですが、見当たらない。
ネットで調べてみるといくつか見つかったのですが、残念ながら取り払われたようです。最近、管理されない小さな神社は撤去されてしまうことも多いです。
https://ameblo.jp/benben7887/entry-11931885257.html
https://hotokami.jp/area/tokyo/Hkrtm/Hkrtmtm/Dapst/144971/8055/
それで他を探してみると、歩いて15分弱のところに「福徳神社」というのがあるので行ってみました。コレド室町のそばにあります。社殿が新しいのですが、現在の社伝は三井不動産がコレド室町と共に建てたようです。
由緒ですが、
当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、9世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道潅との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正18年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長19年に参詣し、「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当地の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を330坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成26年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往事の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った。
御祭神は主祭神が「芽吹稲荷」ということもあって倉稲魂命(ウカノミタマ、「宇迦之御魂神」(五穀主宰、生業の神))、相殿に天穂日命(アメノホヒ、天孫降臨に先だち大国主命と和した神)、大己貴命(オオムナチ、「大国主命」(出雲を中心とした葦原中国を統べた神))、少名彦名命(スクナヒコナ、大国主命とともに国造りをした医療・温泉・酒造の神)、事代主命(コトシロヌシ、大国主命の第一子・物事をよく知り、国土経営に努む神)、三穂津媛命(ミホツヒメ、大国主命の后神)、江戸時代前に合祀が太田道灌(江戸城を築城した戦国時代の武将)、江戸時代に合祀が弁財天(インド由来の神・江戸城内より勘請)、徳川家康(「東照大権現」(徳川幕府を江戸に開府))です。
福徳神社(芽吹稲荷)は、江戸時代に富くじの発行を許された社寺だそうです。御祈祷にも「宝くじ当選」があるようです。また社殿の横には、「はずれくじは、こちらにお納めください。お焚き上げを致します。」と書かれた箱がありました。
その隣に「薬祖神社」がありました。福徳神社は多くの人が参拝していましたが、こちらは誰も参拝しておらず、小さな祠があるだけでした。御祭神は大己貴命と少彦名命です。
由緒によると
わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。
大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)
少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。
日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。
明治41年(1908)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人 東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和4年(1929)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和58年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。
さらに平成28年(2016年)9月28日福徳の森に第三代目の薬祖神社が遷座いたしました。
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