東京へ行った時のネタも最後のようです。
「大鳥神社」といえば、関西では堺にある神社を思い出しますが、目黒にも大鳥神社がありました。目黒不動尊から山手通りを北へ行った所の交差点の北西部にあります。
御祭神は主祭神が日本武尊、相殿神が国常立尊(くにのとこたちのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)です。
御由緒には
景行天皇の御代(71〜130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、当国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。
東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
社殿右側に大きな木があり、少し離れたところに「都天然記念物 大鳥神社のオオアカガシ」という石碑がありました。
ところが、説明板には
大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として、昭和38年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシCyclobalnopsis acuta(Thunb.) Oerst.var.megaphylla Hayashi,var.nov.のタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。
指定時に樹高約16メートル、幹周り1.6メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成14年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成24年に指定解除となりました。
ここに説明盤を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。
あららら、大きな木はオオアカガシではないようです。ここにも環境破壊があります。
石碑のそばには、なんと「切支丹灯籠」というのがありました。
説明板には
下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。
もとは千代ヶ崎の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった、寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。
キリスト教関連の灯籠が神社が所有していたというのは驚きです。江戸時代というとスペインやポルトガルが植民地の野望を持って宣教師を送り込み、その対応としてスペインとポルトガルとの来港を禁止したのですが、通常であれば他の国であれば、例えば日韓併合時代の朝鮮の神社のように、存在を徹底的に無かったことにすると思いますし、そういう意味では神社が所持しているというのも過去の歴史を大切にしていた日本ならではだと思います。
ブログランキングに登録しました。下記のクリックをお願いします。
人気blogランキングへ

0