今日は母の命日でした。ちょうど5年前の今日亡くなったのですが、今回と同じ火曜日でした。5年前は年内で希望退職することになっていて、最終出勤日の28日までにすべての引き継ぎが必要で残り出勤日は6日でした。朝出勤しようと思っていると病院から電話が掛かってきて、血圧が低下しているとのこと。会社は有休を取って病院に駆け付けたのですが、昼3時過ぎに亡くなりました。
11月末に心臓の手術をして、回復を願っていたのですが叶いませんでした。
どうしても病院の前や亥年だったこともあって母のためにお守りを買った護王神社は嫌いになっていく気にならないのですが、病院の裏にある平安女学院のアグネス・イルミネーションに行ってみました。母が入院していた時は帰りによく通っていました。
この近くには、「旧二條城跡」の石碑があります。
永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、スイス・フロイスの記録等より)その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
その近くには、斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址の石碑がありました。
室町幕府「第一の家格」として三管領筆頭だった斯波義将(1350〜1410)は、宮中御所等を守護していた兵衛府の唐名をとって武衛と呼ばれていた。斯波氏が、室町通り勘解油(かでの)小路に邸宅を構えたため「かでのこうじ殿」と呼ばれることもあったが、いつしかこの地と邸宅は、武衛の名をとって武衛陣と呼称されるようになった。武衛陣は、応仁の乱で戦火に遭い焼失したが、遺址付近は現在も武衛陣町と呼ばれている。
後年、室町幕府第13代将軍足利義輝(1536〜65)が当地に邸宅を構えて政務をとった。しかし永禄8年(1565)松永久秀らに襲撃され死去、邸宅も焼失した。
永禄12年(1569)、織田信長が武衛陣跡地を拡張し、室町幕府最後の将軍足利義昭(1537〜97)のための旧二条城を建設した。
維新後の明治28年、この「武衛陣・旧二条城」跡地に、平安女学院が大阪の川口居留地より移転し、今日に至る。平安女学院の英語名であるセント・アグネス・スクール(St.AgnesScool)のセント・アグネスは、紀元305年ローマ皇帝の迫害により13歳のうら若き身をもって殉教の死を遂げた少女の名である。その後、セント・アグネスは、全世界の信徒より「少女の守護聖人」として崇められている。
守護を司った斯波氏武衛陣と守護聖人アグネスを校名として掲げる平安女学院は、奇しくも同じ場所に建てられている。
平安女学院を南北に通る道は「室町通」ですが、昔、室町幕府ゆかりの建物が建てられていました。
アグネス・イルミネーションは25日までです。
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