今日は「しろおび!京都塾」というイベントに行ってきました。しろおび!京都塾は平安童舎というユニットが企画しているイベントで、4月の第1回は京都と江戸の桃太郎についての話でした。場所は岡崎別院にて開催されました。
今回は、「だけじゃない! 祇園祭2015の私的愉しみ方」と題して、祇園祭の氏子をされている坂田憲治氏の話でした。
祇園祭は7月1日から1ヶ月間行われます。私は2日に行われるくじ取り式の観覧に応募したのですがスカでした。祇園祭と言えば、宵山と山鉾巡行だけと思っている人が多いと思うのですが、本来は17日に行われる神幸祭で八坂神社に素戔嗚尊 (すさのをのみこと)、櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと)、八柱御子神 (やはしらのみこがみ)の3体の神輿が御旅所へ運び、24日の還幸祭で災いをきれいにして3体の神輿が八坂神社に戻るのが原点です。山鉾巡行はいわばそれらのお祝いのパレードのようなものだそうです。
八坂神社は、斉明天皇2年(656年)、朝鮮の高句麗から来日した渡来人が素戔嗚尊の神霊を八坂郷に祀ったのが始まりとされています。祇園祭の前身である祇園御霊会は、貞観11年(869年)に疫病が流行り、牛頭天王(素戔嗚尊)の祟りを鎮めるために、全国の国数66本の鉾を神泉苑に立て、祇園社から神輿を送ったのが始まりとされています。当初は疫病等が流行る時にのみ行われたのですが、天禄元年(970年)より毎年祭を行うようになりました。このあたりから牛頭天王は祟りを鎮める疫神から人々のためにもろもろの災いを祓う神に変化していったとのことでした。
平安後期まで、官祭だったのですが、その後貴族に財力が無くなってきたので、庶民の祭りになりました。
南北朝時代の貴族の日記に今の山鉾の原型のようなものが出来たとのことです。今の山鉾は各町が出していますが、この頃は油商人の組合、宮中下級職員、白河周辺の何らかの利権集団のような職場、地域、商業組合の出す山鉾もありました。
足利義満の時代には神輿が無く、鉾のみだった時がありました。この当時は幕府と祗園系列の寺であった延暦寺との関係が悪く、神輿は延暦寺が統制するので、一般人の出す山鉾は幕府が自己の権威を高めるために強くけん制しました。この頃から、先祭、後祭の山鉾巡行の形が出来てきました。
応仁元年(1467年)応仁の乱が起こり中断し、明応元年(1500年)に復活したのですが、幕府の力が弱まると共に延暦寺の力が強くなったために、延暦寺が無理難題の要求をしたことにより祭の開催時期が頻繁にずれました。例えば、永正9年(1512年)は前年に祭が出来なかったので5月と6月の2回行われました。これは元亀2年、織田信長が延暦寺を焼打ちするまで頻繁にずれました。
江戸時代は、宝永の大火、天明の大火、蛤御門の変により多くの山鉾が焼失し、その後予算の都合上、稚児が人形になる山鉾が増えてきました。
祇園祭1ヶ月の見どころはあまり時間が無かったのですが、10日の神事用水清祓、14日の松原中之町古式一里塚松飾式などの話がありました。
今まで京都に住んでいた私でも全く知らなかった祇園祭のことが分かって有意義でしたし、話も分かりやすく楽しかったです。
私は、一昨日ぐらいから腰が痛く、場所が場所だけにキャンセルしようかと思っていました。幸い、後ろに椅子があったので、早めに行ったのが幸いして座ることが出来ました。ただ、2時間近く休憩なしで話されると、座布団に座っている人は辛そうな人が多かったです。
終了後、30分程度本堂から書院に移動してミニ茶話会がありました。私も鉦を「コンチキチン」と叩いてみたのですが、思ったより鉦が重かったです。
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