2005/6/3

悲しいほど海は青く  News

1945年1月31日。
沖縄に、県知事として赴任してきたひとりの男。

その男の名前は島田叡(しまだあきら)。
当時の県知事は国が任命して派遣していた。
兵庫出身の島田叡は、沖縄知事への就任を要請され、その任を受けた。
当時の状況を考えれば「県知事として沖縄に行ってくれ」という命令は
「沖縄で死んでくれ」と言われているのと同じだった。

家族の反対を彼はこう言って説得した。

「おれは死にとうないから、だれか行って死ね、とは、よう言わん」

沖縄に降り立った彼のカバンの中には、拳銃と、青酸カリが入っていた。
いざというとき、自決するためのものだった。

彼は、市民の生活に飛び込み、酒を酌み交わし、励まし続けた。
しかし、時間が無さ過ぎた。

1945年4月。
アメリカ軍の上陸が始まり、地獄の戦場と化していく沖縄。
降り注ぐ砲弾を避けて暮らす壕の中で、島田知事は少しでも多くの県民の命を救うため、
最後まで行政機能を維持しようと奔走した。

1945年06月下旬、現在の糸満市伊敷にある轟の壕で、県組織の解体を命じたあと、
警察部長ら数人とともに軍司令部のある摩文仁方面に向かったまま消息を断ち、
今日まで遺体は発見されていないという。

島田知事、そしてともに働き殉職した県庁職員たちの魂は、摩文仁(まぶに)の「島守の塔」に眠っている。わずか5ヶ月足らずの沖縄での行動がいまなお、多くの人に慕われ続けている。

1972年11月3日には、坂井、屋良両知事が出席して、兵庫・沖縄友愛提携調印式が行われ、両県の永遠の友情が確認された。

1995年。神戸の震災の時に、沖縄の人たちも多数神戸にてボランティア活動をされ、
兵庫県と沖縄県では、今でも平和というキーワードでの民間交流がある。

写真は、「摩文仁の丘」からの海。

今年で戦後60年。
私が生まれたのは、戦後30年のとき。
たった2倍の年月。

この国には、忘れてはいけないことがたくさんある。
たまたま宮古島で、今年の冬に見たTV番組で彼の名前を知った。
いつか教壇に立つ日が来るのであれば、
教えたいお話です。

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