2008/4/17

1951年11月札幌原爆展  1950年代原爆の図展調査

昨日の日誌にご紹介しましたが、札幌市にお住まいの友の会会員Hさんから、1951年11月に開催された札幌原爆展の資料が届きました。
Hさんは当時札幌南高校の1年生で、生徒会室でチケットを買い展覧会を観に行ったことを日記に記していたそうです。
今回、原爆展について調べて下さった際、『北海道新聞』を検索してもさっぱり記事がなく、『北海道大學新聞』や『札幌西高新聞』の方が詳しく報じていたそうですが、当時の教員や学生の社会的関心の高さが感じられ、興味深く思われました。
とりわけ『北海道大學新聞』は、(北大文化団体連合会らが中心になって活動していたこともあって)札幌原爆展を準備段階から報じています。

   *   *   *

1951年10月5日『北海道大學新聞』には、「近く札幌で原爆展 赤松とし子 原爆の図も来道」との見出しで、展覧会の準備段階の記事が掲載されています。
それによると、札幌では北大中央委員会が中心となり、市内の宗教団体、民科、職組などと提携して10月下旬から11月上旬にかけて原爆展を市内百貨店で開催する準備を進めたようです。
展覧会に先立って、道学連が京都大学同学会が中心になって行った原爆展の経験を伝える小冊子『平和の誓いに結ばれて―原爆展のできるまで―』(1部10円、発売元各自治体)を発行したことも紹介されています。

札幌原爆展が開催されたのは1951年11月20日、21日の2日間でした。
第1会場の札幌丸井5階では《原爆の図》5部作が展示され、第2会場の富貴堂2階では北大理学部教授の監修のもと、各学部出品の原爆に関するパネルパノラマ模型が展示されました。
主催は北大文化団体連合会、後援は道学連、北大全学中央委員会です。

1951年11月10日『北海道大學新聞』には、「原爆展にもりあがる熱意 文連主催 20・21両日札幌で公開」との見出しで、原爆展を成功させるために各種生活協同組合、勤労者医療協会、婦人団体、労組、教育関係など市内諸団体に呼びかけ、会場の丸井に会期延長を交渉するなど、主催団体の熱意が報じられています。
また、札幌に先立って開催された室蘭では4日間で延べ4,000人が、旭川丸井では「平日の5倍」(正確な人数は記載なし)の人が訪れたと紹介されています。

展覧会の初日、1951年11月20日『北海道大學新聞』には「生き残った人々の願い 総合原爆展 平和への意欲を結集 三十余団体の支援 遂に公開なる」と、1面に原爆展の記事が大きく掲載されました。
紙面には、理学部、工学部、医学部、農学部、法経・文学部、教養部の学生が制作した「原子核の構造、分裂」「火傷の人体への影響」「札幌に原爆が落ちたら」などパネルのテーマが紹介されています。

同月10日、11日の両日に雨竜郡秩父別村筑紫で開かれた原爆図展の様子も報じられ、「山深い村民約三千名に多くの感銘を与え、翌十二日には赤松さんの生家善性寺で盛大な原爆法要が行われた」と記されています。
俊が『北海道大學新聞』編集部にあてた便りも原文のまま掲載されています。
筑紫ではこの善性寺で開らきました。村の坊さん、五ヵ寺から集つてもらつて原爆法要を営みました。アミダ仏像と並んで盛大でした。よく似合いました。
この善性寺での展覧会と原爆法要については、俊も後に画文集『ちび筆』(1954年、室町書房)などで回想し、当時のデッサンも現存しています。

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同日『北海道大學新聞』2面には、原爆の図第1部《幽霊》の部分写真とともに、「原爆の図」と題する丸木夫妻の文章も掲載されました。原爆投下直後の広島の惨状の描写から《原爆の図》制作を決意した時の心境、そして巡回展にいたるまでの説明の基本形と言える内容(これは大部分が原爆の図丸木美術館の展示にも受け継がれています)が、この時期にほぼ完成していたことがわかります。

札幌原爆展は市民・学生などを中心に、約1万人を動員する盛り上がりを見せました。
主催者は会期の延長を札幌丸井に申し込みましたが、「先約がある」との理由で断られたため、《原爆の図》展の会場を北大中央講堂に移し、22日から3日間延長して公開しました。
しかし、22日には展覧会の主催者の1人が逮捕されるという事件が起きました。

1951年11月23日『北海道新聞』2面に、「原爆展の責任者逮捕」との小さな記事が掲載されています。
札幌市警では22日、市内南143富貴堂2階ギャラリーで開催中の北大文化団体連合会主催原爆展会場に張付けてあった反米内容のパネル3枚を押収するとともに張付責任者の札幌市南9西18日共道地方委員青柳清(42)を政令325号違反容疑で逮捕した。

1951年12月5日『北海道大學新聞』1面には、「『市民の声』押収さる 圧迫の下で原爆展好評なす」との詳細な記事が掲載されました。
その記事によると、逮捕された開催責任者の青柳氏は、実際は責任者ではなく会場の交渉をしたのみであり、主催者の北大文連側が「原爆展にたいする圧力とみて」再三釈放の要求を出した結果、30日に釈放されたそうです。「占領目的阻害行為処則例」に違反したとされるパネル3枚は、結局返還されませんでした。
しかし展覧会は無事終了し、最終日には、「赤松丸木両氏を囲んで座談会を開催、なごやかなふんいきで5日間の成果をかえり見た」と記されています。「さまざまな困難もありましたが平和を求められる人々とともに原爆展が成功したことを喜びたいと思います、私はこの絵を画いて、いままでもつていた劣等感をぬけ出し自尊心を持てるようになりました、私は平和を求め戦争をにくみ原爆使用に反対される人々とこんご手をにぎり平和への意志を高めて行きたいと思います」という、俊の談話も掲載されました。

この札幌展については、俊が自伝『生々流転』(1958年、実業之日本社)でかなり詳しく回想しています。
展覧会の最初にC.I.E(連合国軍総司令部の民間情報教育局 Civil Information and Education Section) が来て会場の写真を撮り、サインをして帰って行ったこと。
北大の講堂では展覧会を妨害するレコードコンサートとダンスパーティが会場の真ん中で開催されたこと。
新聞社が取材に来て、青柳氏逮捕と、作者の逮捕状が作成中であると知らせてくれたこと。
事件を担当した白鳥警部補が翌年1月に射殺され、容疑者として札幌展の関係者が多く逮捕されたこと(この事件については不可解なことが多いようです)。
結局丸木夫妻は逮捕されず、開催が心配された次会場の函館では、新聞報道の影響もあって人止めをしなければならないほど多くの観客が訪れたことなど……

丸木夫妻はGHQ占領下の原爆展について、後に「危ない目にあったことは何度もある」と回想していますが、この札幌原爆展は、その代表的な例と言えるでしょう。
また同時に、展覧会の準備に携わった人びとにとっても、いかに困難で危険を伴う活動であったかも、これらの記事からは読み取れます。

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札幌展の後、11月29日から4日間開催された函館原爆展では、チェロ奏者の井上頼豊氏が会場で演奏を行ったことが注目されます。
昨年5月5日の開館記念日に丸木美術館で演奏をして下さったキーボード奏者の井上鑑さんのお父さんです。
さきの1951年12月5日『北海道大學新聞』には、演奏会のため訪函中の井上氏が12月1日午後に展覧会会場を訪れ、約300名の観衆を前に「原爆が落とされると私の拙い演奏はもちろん、大音楽家の演奏も、また聴く人もこの世からはいなくなる。音楽家も平和のための演奏を行つてこそ真の音楽家といえる」と語り、荒城の月、シューベルトの子守唄、トロイメライ、メヌエットなどの追悼演奏を行ったと記されています。
この記事を読みながら、井上鑑さんが「音楽と平和は双子の兄弟」という頼豊氏の言葉を紹介されていたことを思い出しました。

50年という歳月を越えて、《原爆の図》の前にひと組の素晴しい音楽家父子の演奏が流れていたことには、今さらながら感動の思いがあります。
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