2008/1/31

1950年10月広島五流荘展  1950年代原爆の図展調査

ここ数日、1950年10月5日から9日に広島市内の五流荘で行われた「原爆の図展」について調べています。《原爆の図》三部作が初めて広島市内で公開された重要な展覧会です。
中国新聞のK崎記者の協力により、いくつかのことがわかってきたので、以下にまとめます。

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まず、会場となった五流荘について。
資料によっては、「爆心地の原爆会館」(1950年10月21日付『婦人民主新聞』)「爆心地文化会館」(「原爆の図三部作展覧会記録」)などとも記されていますが、五流荘、または五流荘ホールという呼び方で良さそうです。
五流荘については、1993年2月8日付『中国新聞』に「建造者不明・資料なし…幻のホール」という記事が出ていました。
終戦直後から1951年頃までの数年間、原爆ドーム南隣にあった簡易木造建築で、当時の広島県労働組合協議会会長の松江澄さんの回想によると、「だれが、何のために造ったのか今なお分からない。個人で造れるような大きさではなく、管理する人もいなかった。中は体育館のようにがらんどうだった」そうです。
五流荘は、原爆反対などを叫ぶと連合国軍総司令部(GHQ)ににらまれた時代の平和運動を支えた建物ですが、資料はほとんど残っていないとのこと。
1950年10月の「原爆の図三部作展」に関わり、翌年8月1日には被爆者のための慰霊音楽会を開いたという松江さんは、「平和運動にはなかなか会場を貸してくれない時に、自由に使えてありがたかった」と話しています。

ヒロシマ平和メディアセンターのWEBサイトの今年1月18日の記事には、被爆から2年後の広島中心部のパノラマ写真(撮影:菊池俊吉氏)が掲載され、五流荘の姿も確認できます。
原爆ドームの奥の、三角屋根の倉庫のような建物です。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/jp/news/n080118/n080118.html

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「原爆の図展」に協力したのは、『われらの詩(うた)』という詩誌を発行していた青年詩人集団「われらの詩の会」(代表・峠三吉)。
1975年7月25日付『中国新聞』の記事「《原爆の図》にかける 丸木位里・俊の30年〈4〉」によると、峠三吉・和子夫妻、深川宗俊、望月久、増岡敏和、林幸子、四国五郎らのメンバーでした。
展覧会前日には丸木夫妻と壺井繁治の座談会が行われ、『われらの詩』第10号(1950年12月発行)には「壺井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」という要約記事が掲載されています。

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俊は座談会で、以下のような発言をしています。
 原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか、「長崎の鐘」でもお祈りするだけだ。それより人が死んだということがつらいし、癪にさわるという氣持ちもあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもつた。
 アトリエが狭いので丸めて描き部分部分を細かく描いたので、ルネツサンスにおけるリアリズムの原則の透視圖が成立しない。即ちミケランヂェロ等とちがつて繪全体に焦点がなく一つ一つの部分にそれがあるのだ。そういう傳統は東洋畫のなかにある。リアルでないといわれるけれど描く本人にとつて肉体的に感覺したもののなかにそうしたものがあるのではないかと思つている。


壺井氏はそれに対し、こう答えます。
 モチーフは失われた人間の生命に對する愛情、そういう破壊に對する憎しみ、その愛と憎しみがつよくでているとおもう。現實には木や瓦があるのだがモチーフが人間にあるからモチーフを追求した方がボリユームがあるとおもう。材木など觀る者が想像すればよい。

丸木夫妻は《原爆の図》の連作(その後の南京やアウシュビッツ、水俣、沖縄なども)を通じて、徹底的に人間の身体を描くことで主題に迫っているのですが、それが1950年という初期の段階から相当強く意識されていたことが、あらためて感じられる資料です。

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1950年10月6日付『中国新聞』には「書きつづく原爆畫」という見出しで、第3部《水》の右半双の写真とともに展覧会の様子が報道されています。
この記事には、丸木夫妻の談話(おそらく俊の言葉でしょう)が紹介されています。
 映画でも絵画でも雲がモクモクと出ているのが原爆であるというような軽々しいあつかいをしているのが気に入りません、原爆直後の広島市をこの目でみてスケッチした私たちも爆弾は受けなかったのでこの展覧会を機として体験者の話をもきいて四部作、五部作と続けたいと思います、アメリカで画集を発行する計画もありますが、私たちはこの作品をもっともっと充実したものにしてゆきたいと思います。
広島での初公開を機に、「体験者の話をもきいて」後続作を描く構想が最初からあったこと、当時「アメリカで画集を発行する計画」もあったこと(どれほど現実的だったかはわかりませんが)などがわかります。

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1950年10月21日付『婦人民主新聞』には、展覧会の総括が掲載されています。
それによると、「宣伝が十分できにくかつたことと、繁華街でないため、東京展にくらべ入場者はすくなかつたが、会場での平和投票は2,668票に達し、これは広島の婦民クラブの票に加えられた」とのこと。
紙面に紹介された俊の便りには、絵の前に次々と語り手が増え、丸木夫妻は聞き手にまわりながら、「もうこれで完成と思つていた原爆之図は四部作五部作へと前進せねばならなくなりました」と思ったことが記されています。

《原爆の図》をあくまで前向きにとらえる俊に対し、位里は別の考えを書き記しています。
1950年10月5日付『中国新聞』に掲載された、位里の絵と文による「陳列館跡」。
興味深く、かつ短い文章なので、全文引用します。

見まい、思い出すまい、思い出すのはたまらない。見まいとしても見なければならない陳列館跡。わたしはこの陳列館をどうしたらいいかと広島へ来たたびに考えさせられている。原爆の図は広島へは持って来てくれるな。広島で展覧会をするのはやめてくれ、と妹はしんけんな顔をしていった。ある主催者はいまさら凄惨な思いを再現するのはどうかというてきました。わたしはこの原爆の日を描いて考えさせられております。描かなければならない。絵かきとしていま、描かなければならないものはこれだと思って、すべてをなげうって描きあげたこの絵が、人を嘆きかなしませる絵であってはならない。

広島では決して《原爆の図》展示は歓迎されたわけではなかったことを感じ取り、「絵かきとして描かなければならない」との決意の一方で、「すべてをなげうって描きあげたこの絵が、人を嘆きかなしませる絵であってはならない」との思いを抱いた位里。
原爆という未曾有の地獄図を描きながら、しかし芸術としての美しさをたたえている《原爆の図》の複雑さ、多面性は、こうした二人の感情の交錯から生まれてきたのではないかと思います。

ちなみに「陳列館」とは、現在「原爆ドーム」の名称で知られる広島県物産陳列館(1915年8月5日開館、1933年広島県産業奨励館に改称)のことです。
戦前は盛んに美術展が開催され、広島での美術普及に大きく貢献した建物で、位里も1936年に靉光らと開催した第1回藝州美術協会展をはじめ、何度も作品を展示していました。
《原爆の図》連作には「原爆ドーム」などの建物は一度も描かれていないだけに、『中国新聞』に掲載された位里の筆による「陳列館跡」のスケッチは、なかなか興味深いものがあります。

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2008/2/1  14:34

投稿者:岡村

>tu-taさま

どうもありがとうございます。
そろそろニュースも動き出さなければいけませんね。
遅くとも今月20日前後には内容を固めておきたいです。
道面さんにはどうぞよろしくお伝えください。

2008/2/1  12:47

投稿者:tu-ta

これ、すごくいい記事です。
ニュースに載せたいような。
ぼくからも道面さんに聞いてみようかな。
最近、よく会うし。


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