2018/11/24

【大阪出張】ココルーム/済州四・三犠牲者慰霊碑/大阪人権博物館講演  調査・旅行・出張

昨夜は済州から関西空港へ飛び、お世話になった大阪大学のKさんとお別れして、釜ヶ崎へ。
あちこちの店からカラオケが鳴り響く飛田本通商店街のアーケードを歩いて、ココルーム(釜ヶ崎芸術大学)に到着。

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李仲燮の西帰浦の家みたいな、1坪ちょっとの空間の「俳人の部屋」に泊まりました。

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壁には、チラシの裏に書かれた秋葉忠太郎さんの俳句がいくつも貼られていました。

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秋葉忠太郎さんは旭川の小作農の生まれ。絵は好きで画家になりたかったが学校の月謝も払えず、美術の先生の家に世話になったものの、美術学校の受験には落ちたそうです。
やがて東京の大学へ行き、反戦運動に参加。治安維持法容疑で捕まり、仕事はなく、結婚したばかりの妻といっしょに満州へ行きました。満州での暮らしは良かったのですが、ソ連参戦により状況が一変。何千という日本人の死体を山に埋めて、やっとの思いで日本に引き上げます。そして、大阪の山王町にある妻の実家に身を寄せましたが、生きる熱を失いました。
「わたしは歴史からこぼれおちた わたしは人生をおいてきてしまった」(『こころのたねとして2011 釜ヶ崎・飛田・山王』より)

2011年の時点で99歳だったというから、丸木俊と同い年になります。生まれた場所もすぐ近く。旭川のどこかですれ違っていたかもしれません。
丸木夫妻と同じ時代を生きた、もうひとつの別の人生が釜ヶ崎にありました。

   *   *   *

朝は朝がゆ定食とコーヒーをいただいて、カフェスペースに立ち寄った「釜ヶ崎のおっちゃん」のひとりと世間話をしたりして、なかなか快適に過ごしました。

昨日、済州空港へ向かった際のタクシーの運転手は、親戚が大阪市生野区の御幸通にいるとのことで、日本語がとても上手でした。
生野区周辺(もとの地名は猪飼野)には日本最大のコリアタウンがあり、その大半は済州島の出身。1922年(23年説も)の大阪ー済州島間の定期直行便「君が代丸」就航によって、多くの移民が大阪に入り、戦後になっても済州島4.3事件、朝鮮戦争からの避難する人びとが大阪へ向かったそうです。今回、済州島へ行くにあたって、明石書店『済州島を知るための55章』(2018)を読んで、あらためて大阪と済州島のつながりの深さを学びました。

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ココルームをチェックアウトして、午前中は天王寺区茶臼山の統国寺へ。
つい一週間ほど前、「済州四・三犠牲者慰霊碑」の除幕式があり、ニュースになっていたのです。

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慰霊碑には、当時、済州島内にあった村の数と同じ178の済州島の石が並べられていました。『済州島を知るための55章』によれば、政府の苛烈な「焦土化作戦」によって、108の村が消滅したといいます。
済州島のシンポジウムでお世話になった済州大学のK先生は、「慰霊碑の石は、私が頼まれて日本に送ったんですよ。法律では禁止されているので、許可を取るのにとても時間がかかって、大変でした」と言っていました。

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統国寺の境内は無人でじっくりと慰霊碑を見ることができましたが、週末の天王寺公園周辺は、動物園や阿倍野ハルカスなどに出かける家族連れで、とても賑やかでした。

   *   *   *

午後は大阪人権博物館にて、原爆の図《高張提灯》(1986)特別展示のギャラリートーク。

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昨日まで済州島でご一緒していたKさんがご夫妻で来られ、Sさん、Oさんら関西方面の顔なじみの方々が駆けつけてくださり、本当にありがたかったです。
というのも、トークを前に、人権博物館から、ある新聞記者の方が書かれた「「原爆の図 高張提灯」の題材となった史実の真偽」という未発表の論考が突然送られてきて、「被差別部落では原爆のとき軍隊に見張られてどこにも逃げ出せなかった」という《高張提灯》の主題と、記者の検証する「客観的事実」とのズレについて、自分なりに応答しなければならないと気を張っていたのです。

ところが、来場されると聞いていた新聞記者の方は、別の用事で来られなくなってしまったとのこと。それでは何のために発表を準備したのか、聞き手の方たちの意識と発表内容とのズレが気になり、旅の疲れも手伝って、少々散漫なトークになってしまいました。

しかも、《高張提灯》は専門家の批判を受けて常設展示を外されたと伝え聞いていたのですが、A館長によれば必ずしもそうではなく、「事実と違うのではないか」との指摘は確かにあったものの、1995年のリニューアルに際して展示の見直しを行ったことが直接の理由であったそうです。
それはそれで、ほぼ時期を同じくして広島平和記念資料館でも《原爆ーひろしまの図》が、やはり広島市現代美術館の開館に伴う所蔵先の移管やリニューアルによる展示見直しを理由に常設展示を外れているので、70-80年代の市民運動と90年代の変化、あるいは実物中心に切り替わっていく博物館の展示の問題など、気になることはいろいろあります。

ともあれ課題は課題としつつ、忘れたいことはなるべく忘れて、両手に土産物と図録・書籍を抱えて、久しぶりのわが家に帰りました。
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