2016/10/3

【広島出張初日】広島市内遺構・文学碑めぐり  調査・旅行・出張

広島出張。諸般の事情により1日スケジュールが空いてしまったので、これまでなかなか行くことができなかった遺構や文学碑などを中心に、久しぶりに広島の街を歩こうと思い立ちました。

まずは中沢啓治『広島カープ誕生物語』モニュメント(2015年建立)からスタート。

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ちょうどマツダスタジアムではコンコースを特別開放し、カープの練習を見学できるようになっていたので、ポストシーズンに備えて体を動かす選手たちを見守りました。
お散歩に来た保育園児たちの一番人気は「新井さん」。大きな声の「がんばれー」という声援を受けて、手を振って応えていました。

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その後は南に向かい、鶴見橋(爆心地から1.7km)を通過。ここには被爆したシダレヤナギが今も残っています。

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そのまま京橋川に沿って、中区昭和町の平和アパートを訪ねました。

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1948〜49年度に建てられ、広島市で初めての鉄筋コンクリート造の市営住宅。
3号棟の4階には、詩人の峠三吉が住んでいました。敷地内には、峠の「河のある風景」を刻んだモニュメントも建っています。

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次に、京橋川を渡って、南区出汐の広島陸軍被服支廠(爆心地から2.7km)へ。
出征前、まだ10代のの四國五郎が勤務していた場所でもあります。

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1913年竣工、鉄筋コンクリート造り煉瓦張りの遺構で、原爆の爆風で歪んだ鉄製の窓は、今もそのまま残されています。
被爆時は救護所として使われ、峠の『原爆詩集』に収められた詩「倉庫の記録」の舞台になりました。

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ここからは西に向かって歩き、萬代(よろずよ)橋(爆心地から880m)を通りました。1974年に小林岩吉という一人の老人が、この橋の惨状を絵に描いてNHKに持参したことから、市民の手で原爆を描こうという呼びかけがはじまったのです。

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その橋を西に渡って、平和公園に向かって歩くと、左側にある小さな寺が西応寺。峠家の墓があるお寺です。お墓の写真は撮りませんでしたが、四國五郎展の盛況を報告。寺の前には、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」による原爆の絵のモニュメントがありました。

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平和記念公園に入って、まずは芥川永「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」(1971年)を見ました。
正田篠枝の詩「太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」も刻まれています。

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広島市平和記念資料館の下をくぐって、北側の木立には峠三吉詩碑(1963年)があります。「ちちをかえせ ははをかえせ」で有名な『原爆詩集』の「序」の一節が刻まれています。詩碑のデザインは四國五郎。

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原爆ドームの東側には原民喜詩碑(1951年)。「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」 の詩が刻まれています。

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次に、平和記念公園を歩き抜けて、旧市民球場跡地の北側にある中央公園へ。とても広い公園ですが、一周して西側の端にある大田洋子文学碑(1978年)を見つけました。

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「少女たちは 天に焼かれる 天に焼かれる と歌のやうに 叫びながら 歩いていった」という『屍の街』の一節。「少女たち」のように石が並んだこの文学碑も、四國五郎のデザインです。

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夕暮れ迫る中、広島城を通過して、中区東白島町の広島逓信病院(爆心地から1.3km)にたどり着きました。原爆投下によって破壊されながらも当日の夕方から救護活動を行った、市内で数少ない医療機関の一つです。現在、建物の一部が保存され、被爆資料室になっています。

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その隣の郵便局の前庭には、郵政関係職員慰霊碑とともに、栗原貞子「生ましめんかな」詩碑(1989年)があります。

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広島貯金支局地下室に避難していた被爆者が産気づき、いあわせた瀕死の産婆が赤ん坊を取り上げ、自らは命を落とすという内容の詩。土台になっているのは、旧広島貯金局の被爆した屋上タイルです。
「生ましめんかな」の舞台になったのは、実際にはこの場所ではないそうですが、郵政関係のつながりということで建てられたとのこと。

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広島城築城400年を記念して広島市が依頼した入野忠芳の壁画がある広島拘置所を横目に見ながら通り過ぎ、南に向かいます。

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最後に訪れたのは、中区八丁堀の広島YMCAの2号館。ここの入口には、市民が描いた原爆の絵のモニュメントが建ち、四國五郎の《平和行進》も使われていました。

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この広島YMCAは、かつて済美国民学校があった場所で、児童の像の背後には、その済美国民学校の児童たちの被爆を詠った峠三吉「墓標」詩碑が飾られています。
1950年10月、丸木夫妻の「原爆の図展」が行われた際に、初めて朗読発表されたという長編詩です。

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この詩碑にたどり着いたときには、あたりはすっかり暗くなっていました。携帯電話で確認すると、今日の歩数は3万歩を超えていました。さすがに最後はちょっと疲れましたが、実際に自分の足で歩いて知ったことの中には、後々役に立つこともあるでしょう。
明日は四國五郎展の作品返却です。
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