2016/9/8

永田浩三著『ヒロシマを伝える』の事実誤認について  書籍

今夏、刊行された永田浩三さんのご著書『ヒロシマを伝える−詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』は、原爆投下後、占領下の時代に原爆被害を伝えた表現者たちの物語です。
永田さんの多方面にわたるご活躍には以前から敬意を頂いていますし、その問題意識にも共感しているのですが、一方、この書籍に事実誤認が少なくないことは、刊行当初から関係する研究者たちの間で話題になっていました。

私から指摘できることは丸木夫妻関係の記述に限られていますが、中には重要な誤認も含まれていたので、著者の永田さん、WAVE出版担当のSさんと相談の結果、明らかに事実と異なる個所に限って、WAVE出版のサイトに正誤表を公開して頂くことになりました。
念のため、学芸員日誌ブログにも、永田さんのお書きになった正誤表を公開しておきます。

もっぱら丸木夫妻に関する箇所は私が指摘しましたが、広島の地名や人名、施設名などの表記については(お名前は出せませんが)日常的に被爆者の証言に深くかかわっていらっしゃる方からの指摘が多くありました。その他、四國五郎のご遺族や他館施設の方からの指摘も含まれています。

丸木美術館での販売分につきましては、この正誤表を折りこむことにしますが、すでにお求めの方も、正誤表を照らし合わせながらお読みになることをお勧めします。
永田さんの精力的な活動には敬意を表しますが、重要な問題に多く触れているご著書だけに、誤った情報が流布することを危惧します。

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『ヒロシマを伝える』本文中の表現および誤植に関して

この度は弊社出版物をご購入頂きありがとうございます。本文中に適切でないと思われる 表現及び誤植がありましたので、ここにお詫びし訂正させていただきます。

 2016年8月25日
 著者・永田浩三
 株式会社WAVE出版

3頁15行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
31頁13行目 (誤)掘立小屋だった →(正)削除
39頁5行目 (誤)白島町の逓信病院 →(正)東白島町の広島逓信病院
45頁13行目 (誤)猿猴川 →(正)京橋川
51頁15行目 (誤)平野川 →(正)京橋川
58頁15行目 (誤)紙屋町 →(正)中区大手町
58頁12行目 (誤)2016年 →(正)2015年
61頁11行目 (誤)広島中学 →(正)中学校(四國によれば、広島中学とある)
64頁3行目、8行目 (誤)広島産業奨励館 →(正)広島県産業奨励館
72頁7行目 (誤)二歳 →(正)11歳
78頁1行目 (誤)中島公園 →(正)中島町
79頁8行目 (誤)広島市 →(正)広島市立
81頁6行目 (誤)広島 → (正)広島県福山
83頁 図版のキャプション(誤)日鋼争議(赤松俊子・画 丸木美術館蔵)→(正)日鋼ストの門(赤松俊子・画 個人蔵)
88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。
94頁12行目 (誤)9月23日 →(正)8月29日
125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町
134頁4行目 (誤)松重重人 →(正)松重美人
136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除
136頁 図版のキャプション (誤)『みんなの詩』→(正)『われらの詩』
137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人
161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)
240頁5行目 (誤)森重明 →(正)森重昭
240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除
242頁 図版のキャプション (誤)米軍捕虜の死 →(正)米兵捕虜の死


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単純な表記の誤りはともかくとして、訂正箇所には解説が必要なところもあるので、以下、主に丸木夫妻の箇所にしぼって、解説を付記します。

88頁1行目  (誤)白いチマチョゴリの女性を中心に描いている。→(正)裸の女性の脇にチマチョゴリの女性を描いている。

永田さんが言及されているのは、俊が日鋼争議を描いた唯一の油彩画《広島日本製鋼事件によせて》(1949年)を指すと思いますが、以下の図版の通り、裸婦像を中心にした作品で、その左奥に桃色のチマチョゴリを着た女性像が描かれているものの、「白いチマチョゴリの女性を中心に」とは言い難い作品です。

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125頁13行目 (誤)広島県安佐郡飯室村 →(正)広島市三滝町

飯室村のルビ「いいむろ」は誤り、「いむろ」と読みます。
しかし、そもそも丸木家は1931年に広島市内三滝町に転居しています。1950年当時中学生だったという佐藤光雄氏の年齢から考えて、丸木スマの隣家に住み、防空壕を共有していたという回想は、広島市三滝町でのことと思われます。

136頁15行目 (誤)山田五十鈴 →(正)削除

「原爆の図三部作完成記念会」の告知ビラには、確かに山田五十鈴の名があります。
その告知ビラを紹介している刊行物は拙著『《原爆の図》全国巡回』(64頁)のみなので、永田さんはおそらく拙著を参考にして「山田五十鈴がかけつけた」と書かれたのでしょう。
しかし、後日報道された1950年8月26日付『婦人民主新聞』の記事には山田五十鈴のことは一切触れられていません。ビラに名前があっても、当日は来なかった可能性が高いです。少なくとも、私の知る限り、「かけつけた」と言いきる根拠を示す資料は存在しません。

137頁2行目 (誤)およそ170万人 →(正)現在判明しているだけでおよそ170万人

全国巡回展については不明な点が多く、拙著『《原爆の図》全国巡回』に記している通り、「現在判明しているだけで、少なくとも」という前置きが必要です。それは、永田さんが訂正されている「170万人」だけではなく、その直前の「全国170か所」という数字についても同様です。

161頁4行目  (誤)新たに赤松俊子が担当  →(正)赤松俊子が原画を描いた。(ただし、実際に使用されることはなかった。)

→青木文庫の『原爆詩集』は、昔の文庫本によくある画一的な表紙で、表紙原画を俊が担当したという事実はありません。広島市立中央図書館には、俊の描いた表紙原画が存在しますが、文庫用ではなく、単行本を想定したものでしょう。しかし、『原爆詩集』が文庫として刊行されることになった時点で、表紙画は没になったと思われます。今春、丸木美術館でも「未使用原画」として展示しました。

240頁10行目  (誤)真実が浮かび上がる  →(正)「市民が描く原爆の絵」とは、違った見解にたどり着いた。
15行目  (誤)それが暴行によって殺されたという物語の真相のようだ。→(正)これが森がたどりついた結論だ。米兵捕虜は民衆によって殺されたのか、すでに息絶えていたのか、それを判断する手立てをわたしは今持っていない。
17行目 (誤)米兵捕虜の死の話 →(正)米兵捕虜の虐待の話
17行目 (誤)日記をもとに →(正)削除
241頁2行目 (誤)まだ噂話が生き残っていた時代 →(正)削除


もっとも事実誤認を危惧するのは、この「米兵捕虜」の箇所です。
永田さんは、四國五郎の弟・直登の日記についても言及していますが、彼の8月7日の日記の中には、「元の野砲の所で一名の米兵を眞ぱだかにして手足をくくり棒切で通行人にうたしていた」という記述が存在します。
米兵捕虜の虐待についてはさまざまな議論があり、永田さんが言及されている森重昭氏のご著書でも、相生橋の米兵の虐待はなかったのではないかと推論が記されていますが、直登の日記に登場する西練兵場付近での虐待の記録は、おそらくもっともリアルタイムに近い状況で記された、極めて信憑性の高いものです。

そして、1950年10月の五流荘展の際、四國五郎は「4部、5部の資料のために」直登の日記を丸木夫妻に手渡したと自らの日記に回想しています。日記をもとに《原爆の図》を描いたと記すならば、1951年に発表した第4部《虹》でしょう。
1971年の《米兵捕虜の死》を描く際には、原爆資料館主査小堺吉光が同行し、当時陸軍中国憲兵隊司令部特別協力班長だった柳田博、陸軍歩兵第1補充隊第2部隊に勤務し米兵捕虜の世話に当たっていた増本春男から話を聞いたという記事が、1971年2月12日付『中国新聞』に紹介されています。
そうした資料からも、「(直登の)日記をもとに、1971年、丸木夫妻は、『原爆の図』第13部「米兵捕虜の死」を描いた。」というくだりは、明らかな誤りです。

参考までに、《米兵捕虜の死》制作の経緯については、丸木俊の著作『幽霊―原爆の図世界巡礼』(1972年、朝日新聞社)に詳しく記されています。
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