2016/7/11
永六輔さんのこと 分類なし
永六輔さんの訃報を知りました。
永さんが丸木美術館に来て下さったのは、10年前のこと。2006年5月4日でした。
神宮寺の高橋卓志さんとの「いのちの対話」。

その日の会場は200人を超える超満員。
永さんは開場時間前に会場入りして、みずからお客さんを誘導しながら「野球で言う試合前のシート・ノック」と軽快なトークを開始。そのまま最後まで、お客さんの前ではずっと立ちっ放しで、用意した椅子には座りませんでした。
戦争の話、憲法の話、命の話、話題はあちこちに飛びながら、会場は爆笑の連続。
「話芸」とはこういうものかと、間近で聞いていて、おかしいのと嬉しいのとで、涙がこぼれそうになりました。
今も覚えているのは、「私たちは、今、丸木美術館で生きています」という話。
「私たちは、今、銀河系宇宙の、太陽系第三惑星の、地球の、北半球の、日本列島の、本州の、関東地方の、埼玉県の、東松山市の、丸木美術館で生きていて、36億年前からみんなで受け継いで来た大切な命だから・・・これからは自分の年齢に36億を加えて自己紹介をして下さい!」
会場の皆といっしょに笑いながら、ああ、丸木夫妻が描いた《原爆の図》も、丸木スマの絵も、結局はこういうことなんだなと、その言葉は胸に沁みました。
TBSのラジオ番組でも、折に触れて丸木美術館のことを紹介して下さり、「永さんの番組で聞いたよ!」と受付でお客さんが声をかけてくれることもしばしばでした。
最後にお会いしたのは東中野のポレポレ坐だったでしょうか。
永さんが応援して下さっている、と思うだけで元気が出たし、自分がラジオで話すときにはいつも、「テレビと違ってラジオは自由に話せる」という永さんの言葉が胸にありました。
本当に、心からありがとうございました、お疲れ様でした、と言いたいです。
そして、やっぱり、とても寂しい。
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永さんが丸木美術館に来て下さったのは、10年前のこと。2006年5月4日でした。
神宮寺の高橋卓志さんとの「いのちの対話」。

その日の会場は200人を超える超満員。
永さんは開場時間前に会場入りして、みずからお客さんを誘導しながら「野球で言う試合前のシート・ノック」と軽快なトークを開始。そのまま最後まで、お客さんの前ではずっと立ちっ放しで、用意した椅子には座りませんでした。
戦争の話、憲法の話、命の話、話題はあちこちに飛びながら、会場は爆笑の連続。
「話芸」とはこういうものかと、間近で聞いていて、おかしいのと嬉しいのとで、涙がこぼれそうになりました。
今も覚えているのは、「私たちは、今、丸木美術館で生きています」という話。
「私たちは、今、銀河系宇宙の、太陽系第三惑星の、地球の、北半球の、日本列島の、本州の、関東地方の、埼玉県の、東松山市の、丸木美術館で生きていて、36億年前からみんなで受け継いで来た大切な命だから・・・これからは自分の年齢に36億を加えて自己紹介をして下さい!」
会場の皆といっしょに笑いながら、ああ、丸木夫妻が描いた《原爆の図》も、丸木スマの絵も、結局はこういうことなんだなと、その言葉は胸に沁みました。
TBSのラジオ番組でも、折に触れて丸木美術館のことを紹介して下さり、「永さんの番組で聞いたよ!」と受付でお客さんが声をかけてくれることもしばしばでした。
最後にお会いしたのは東中野のポレポレ坐だったでしょうか。
永さんが応援して下さっている、と思うだけで元気が出たし、自分がラジオで話すときにはいつも、「テレビと違ってラジオは自由に話せる」という永さんの言葉が胸にありました。
本当に、心からありがとうございました、お疲れ様でした、と言いたいです。
そして、やっぱり、とても寂しい。

2016/7/14 0:53
投稿者:上原弘子
~6年間はTBSラジオに随分とお世話になっています。10年前は永さん
も大変お元気だったのですが、この数年はお体の具合が悪くお声が聞
けなくて残念でした。軽妙な話芸から連発される辛口批評はもう聞け
ないのですね。でも大往生の人生だったと思います。FBにシェアさせ
ていただきます。
https://www.facebook.com/hiroko.uehara.studio