2015/8/19

BS朝日『黒柳徹子のコドモノクニ』丸木俊放送  TV・ラジオ放送

BS朝日の番組『黒柳徹子のコドモノクニ』で、丸木俊が特集されました。
この番組は、大正デモクラシーの時代に誕生した画期的な絵雑誌『コドモノクニ』にかかわった数多くの芸術家をとりあげながら、その世界を振り返り、「21世紀の子どもたちのために新たな『コドモノクニ』を創る」というコンセプトだそうです。
ナビゲーターは詩人のアーサー・ビナードさんでした。

この夏、何度も丸木美術館に通い、広島や北海道にもロケに訪れたBS朝日のスタッフの皆さん、お疲れさまでした。1時間のなかに、濃密な内容を凝縮した番組になりました。
以下、メモ程度に、番組の内容を紹介します。

   *   *   *

―冒頭、広島の原爆ドーム。
ナレーション あれから、70年目の夏がめぐってきました。広島の街に原爆が落とされたあの夏から……。

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―今夏アメリカン大学で開催されている「原爆の図展」の会場風景。続いて、昨年夏に行ったピーター・カズニックさんの記者会見。

ピーター 《原爆の図》は美しさと恐ろしさをあわせ持った作品として、ピカソの《ゲルニカ》と並ぶものです。しかし、《ゲルニカ》がファシストの大量虐殺を描いているのに対し、《原爆の図》はもっと大きな規模と広がりを持っています。《原爆の図》が描いているのはアメリカ政府が行った大量虐殺だからです。あれから70年たった今でも、核の危険を考える上で《原爆の図》は大きな力となるはずです。

―丸木俊と《原爆の図》についての紹介。原爆投下の目標地点になったT字型の相生橋の上で語るアーサー・ビナードさん。

アーサー 僕らがピカとかピカドンっていう昔からあるような言葉として聞くんですけど、ここで8月6日に造語された言葉。エノラゲイから広島上空を写した写真はピカじゃない。キノコ雲や原爆。でも、ここは原爆じゃない。

―原爆投下後に広島に駆けつけた丸木夫妻。4年半後の1950年2月に最初の《原爆の図》を描き、絵本『ピカドン』も刊行する。

アーサー 幽霊っていう最初の作品を描いたときは、日本では発表できない題材だった。プレスコードが敷かれていて、そういう絵は許されない状況だった。それは日本だけじゃなくて、世界で一番経済力と軍事力を持った組織が、そういうふうに決めていた。つまり、米政府がそういう表現は困ると決めつけて、表現の自由を踏みにじるものに対して、2人の芸術家が挑戦した。世界で一番大きな組織に挑んでいる作品ですね。

―スタジオにて、黒柳徹子さんの挨拶。絵本『ひろしまのピカ』やアメリカ展の紹介。

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―若き日の俊さんの個展の様子や、『コドモノクニ』の挿絵、絵本『ヤシノミノタビ』の紹介。アーサーさん、丸木夫妻の元アトリエ兼書斎・小高文庫にて『ヤシノミノタビ』を手に取る。

アーサー 北斎も入ってるし……かわいくて、豪快ですよね。

―俊の生まれ故郷・北海道雨竜郡秩父別町。俊の甥の善性寺住職・赤松良海さん。

赤松 とにかく、絵が上手だったと父は言っていた。学校の旅行から帰って来て、その旅行の様子をパパパと描いて、みんなびっくりしたという……。

―丸木美術館にて、岡村解説。

岡村 女学校最後の年に赴任してきた若いハンサムな先生(戸坂太郎先生)が、自由に子どもたちに絵を描くことを勧めてくれる人で、それが俊さんの生涯を決定づける、女子美術に行きたいという気持ちが生まれてくるきっかけだったと思います。

―女子美術専門学校時代に上野で似顔絵かきのアルバイト。善性寺美術室に展示されている父親《二世淳良法師の肖像》(1930年)の紹介。卒業後、モスクワに赴任する通訳官の子どもの家庭教師として1年間モスクワへ行く俊。

岡村 モスクワ滞在は、初めての異国に触れる体験であると同時に、本物の油絵を実際に見ることができる貴重な機会だった。一番影響を受けたのはゴーギャン。自分もゴーギャンのようになりたいという、それが後に南洋群島・パラオに行くきっかけになるんです。

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―「南洋群島」パラオへの一人旅。

岡村 南洋に行ったことで俊さんは大きく変わった。色使いが強く鮮やかになり、裸体表現に目覚めていく。人間本来の生まれたままの姿がなんて美しく素晴らしいんだということに気づき、それが戦後の《原爆の図》に地下水脈のようにつながっていくんですね。

アーサー 俊さんの絵は、そこに生きものが生息しているような感じ。言葉が通じなかったり、距離があっても、どういう生物なのかをつかむ。絵の力で、人がもっている生物としてのたたずまいを捉まえる。そういう意味では、俊さんの絵は、最初から子どもにも通じる絵。

―帰国した俊は、位里と運命の出会いを体験する。位里のふるさとは広島・飯室。太田川沿いの生家跡を案内するのは位里の甥・小田芳生さん。旧丸木家の隣に住む天廣敏江さんが、位里が描いた鶴の掛軸を見せてくれる。

天廣 位里さんが描かれたものを、いくらか絵具を買ったりするのにお母さんがよくご存じの人に買ってもらったりしたんじゃろ思うんですよ。

―浄国寺に残る屏風画には「大正15年初春」。養専寺には穂高を描いた襖絵も残る。養専寺住職の森重一成さんが絵の前で語る。

森重 何を描いているのか全然わからんのですよ。というのは、描いたんじゃないんです。残ったところが山になっとるんです。

―前衛的な水墨画で注目されるようになった位里。銀座の個展で、俊は位里に出会う。

 銀座に個展がいくつかありますね。いつもね。それを見に行っていたら、丸木とお友だちの二人の展覧会がありまして、日本画の展覧会でした。丸木は白黒なんです。ものすごくよかった。素晴らしい絵ですって言って、署名するときに、私が感想を描いたんです。(1981年12月8日放送「徹子の部屋」出演時の回想)

―位里はシュルレアリスムの影響を受けた画家として活躍していた。

岡村 位里さんの言葉で面白いと思うのは、「絵は描くものではない。墨を流せばそれでいい」という言葉。上手く見せようと技を尽くして描く絵よりも、何もかも開けっぴろげにして、自然のままに広がっていく墨の形がそのまま絵なんだ、と。ある意味、俊さんの非常に優れた技術とは、正反対なんです。

―前衛的な水墨画家と人間を描く画家。異なる才能の2人は惹かれあい、結婚。1945年8月、広島に原爆が落とされたという知らせを聞いて、二人は広島に駆けつける。竹やぶに逃れて、泣き叫び、死んでいく人びと。1か月間滞在中、俊はわずか2枚のスケッチしか残していない。

 どんどん死にはじめたんです。後から救援に入った人が、8月の終わり頃に血を吐いたり毛が抜けたりして、どんどん死んだ。私もその頃、ずっと血が出てたんです。でも、血が出てますなんて言えない。みんなの方がもっとひどいから。がまんして手伝ったりしていたんですけど、それが東京へ帰ってからもずっと続きました。(「徹子の部屋」出演時の回想)

―二人は3年後の夏、《原爆の図》を描くと決めた。

位里 2年も3年も原爆の絵を描くなんて考えたこともなかった。それがいつのまにやら……原爆を誰も知らないでしょ。言葉も言っちゃいけなかった。写真も全然出てこない。(「徹子の部屋」出演時の回想)

二人は被爆者の話を聞き、デッサンをはじめた。
当時、俊に弟子入りしていた絵本画家のいわさきちひろもモデルをつとめた。

アーサー 俊さんは20世紀の日本の美術において、もっとも生きものを鮮やかに描いた人。俊さんのデッサンを見ると、解剖学的な描き方じゃなく、人体を見事に生きたまま描いている。

―俊とは異なる才能を持つ位里が作品をまとめていく。

アーサー 位里さんは質感や表面、手触り、細やかなところの才能が凄くて、墨の質感と自分が描こうとしている対象物の質感を巧みにつなげて一つの絵をつくる。位里さんは人間でありながらもイカなんじゃないかと思う。墨を吐いてつくるんですよね。モンゴウイカじゃなくて、スルメイカじゃなくて、位里イカという不思議な生きものがいて、墨を吐くことで、何かを生み出しちゃうんですね。

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―1950年2月、原爆の図第1部《幽霊》完成。

(丸木美術館の原爆の図第1部《幽霊》の前にて。
アーサー この作品、何度見ても必ず新しい1人に出会うという。
岡村 アーサーさん、見つけるのが得意ですよね。
アーサー この作品に最初に出会うときは、みんな手を前に出して火傷で……
岡村 皮膚がずるずる剥けてしまった……
アーサー この人の顔とか。
岡村 おなかに、これから命を生み出そうという人の姿に目が行きますよね。そして、眠るような赤ちゃんとか。
アーサー この赤ん坊は、すやすや眠っているような感じにも見えるんですね。
岡村 本当ですね。気持ちよさそうに眠っている。
アーサー そういうふうにも捉えることはできる。
岡村 傷だらけでボロボロの体も描けたと思いますね。これだけの技をもった絵描きさんですから。そこは考えたんだと思いますし、これだけきれいな体を描いて、傷つけるのも画家の筆なので、2人は傷つける必要はないんじゃないかと思ったんだろうと、死んでいく人たちもせめて美しく描いてあげたい。でも本当のことは伝えなきゃいけないし、そのギリギリのせめぎあいが、絵の中にあったんじゃないかと思いますね。
岡村 大人でも子どもでも見られる。そこから先、本当にどんなことがあったのか想像するためのすごく大きな手がかりになっていった。今でもそうなり続けている。凄いことだと思うんですよね。

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―半年後の8月には、第2部《火》が完成。炎に焼かれて傷つき息絶えていく裸の人間の姿が描かれていた。第3部《水》も同時に完成。当時はGHQによって厳しい規制があった。原爆を伝えるには、覚悟が必要だった。

アーサー プレスコードが敷かれていますよね。検閲というか。
岡村 原爆についての被害の報道とか、被爆者の写真を新聞や雑誌では紹介できなかった時代ですね。結構危ないと思いながら描いていたと思います。
アーサー 屏風っていうかたちで展示されていますけど、最初は屏風じゃなかったんですよね。
岡村 元々は掛け軸だったんですね。8本の掛け軸で、今も横のしわの跡が見えますよね。巻いていた跡が残っている。巻くとすぐに移動ができるので、もしアメリカ軍に何かされそうになったら、撤収。巻いて逃げる、そういうことも考えていたみたいですね。

―《原爆の図》は描くことが目的ではなく、人びとに見てもらうことが目的でした。全国巡回展では、会場責任者が逮捕されることもあったが、2人はくじけなかった。

アーサー 権力にもろにぶつかろうとしているんです。描いてはならない、表現してはだめというものを、鮮やかに表現している。でもそうしないと、芸術は成り立たない。装飾品で終わっちゃう。でも自分たちは本質を捉えて芸術をやろうとしている。

―2人の絵は見る者の心を動かしていく。大阪では、1人のおばさんが絵の中の赤ちゃんを撫でて、「このややこが死んだんやで」と自分の子どもに説明していた。

ナレーション 今までたくさんの絵を描いてきました。でも自分の絵を撫でてもらったのは初めてです。これが絵かきとして光栄でなくてなんでありましょう。あなたの心に支えられて、わたしは歩きましょう。(丸木俊著『女絵かきの誕生』より)

― 一方で、実際に被爆した老人からは、次のように言われた。

ナレーション この絵の中から私の孫が出てきそうな気がします。だが、このくらいのことで、原爆を描いたと思っては困ります。もっともっと描いて下さい。これは私たちの絵です」。

―丸木夫妻はさらに描き続けていく。それは2人だからこそできたのではないか。

岡村 おそらく1人であれば、背負いきれなかったんじゃないかという気もするんですね。2人の夫婦の画家だからこそ、お互いに引き合って続けることができたんだろうと。いろいろ批判も受けますし、それでも2人の画家は描き続けなければいけない。描かずにはいられない。そういう気持ちが原爆に対してあったんだと思いますね。

―2人を支えたのが位里の母・スマ。スマには、原爆の本質が見えていた。「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」スマは70歳を過ぎてから、俊の勧めで絵筆をとりはじめる。広島の山奥で自然と寄り添いながら生きてきた人ならではの描写で。スマの孫の小田さんは、よくいっしょに山へスケッチに行ったという。

小田 春か夏は毎年来ていましたから。しょっちゅう、あちこちに描きに行きました。

アーサー スマさんは、いろんな動物を育てて、生きもの育てて、野菜も育てて、それがスマさんの絵の底力。長年命を育ててきたっていうのが湧き出るように……

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―スマの絵には命あるものの輝きがあった。

アーサー ぼくはスマさんの絵は、世界的に語り継がれる絵だと思うんですね。アメリカのグランマ・モーゼスという素敵な画家がいるんですが、グランマ・モーゼスをはるかに越えてる絵描きだと思うんですね。

―《原爆の図》は世界を巡回していく。しかし、留守中にスマが殺害されるという事件が起きた。スマの死は俊の心に重くしかかる。原爆の図を描かない方がよかったのではないか。しかし、その心を励ましてくれたのはスマの残した絵だった。

ナレーション 字は読まず。字は書かなかったけれど、創造し、創作し、無から有を作り出すたくましい精神のおばあちゃんだったのです。もし、このおばあちゃんの絵がなかったなら、わたしはもっと辛かったでしょう。わたしはおばあちゃんの絵で救われているのです。(俊の言葉)

―核のもたらす災厄は決して過去のものではない。2人は《原爆の図》を描き続けた。1970年、ニューヨーク。《原爆の図》は初めてアメリカで展示され、厳しい批判にさらされる。

岡村 原爆を落としたことは正しかったという意見が主流になる国ですから、南京があった、パールハーバーがあった、だから原爆を落として当たり前と丸木夫妻は言われる訳ですね。南京の絵を中国の画家が描いて日本に持ってきて展示したら、あなたたちはどう思いますか。アメリカに原爆の図を持ってくるというのは、そういうことなんですよ、と。

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―帰国した俊は広島へ米兵捕虜の死の調査に行き、被爆した米兵が広島の人々に報復として殺されたという証言を聞く。そして第13部《米兵捕虜の死》が描かれた。

岡村 アメリカ人の捕虜が広島にいた、だから国は自分たちの兵隊も巻き込みながら兵器を使うんだという問題と、その後で日本の人たちがアメリカ兵を報復で殺してしまった、原爆は必ずしも日本人の被害だけの問題じゃないよっていう。私たちはつい日本人の被害のことばかり考えるけど、戦争ってそういうものじゃない。日米両方に対する問題提起が潜んでいる絵なんですね。

アーサー 被爆者は日本人という枠とは違う意味の言葉なんだと、それをすごく鮮やかに示している。
岡村 丸木夫妻にとっても、最初にそれを考えるきっかけになった重要な絵だと思いますね。

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―絵本『ひろしまのピカ』は、被爆した女性の実話をもとに描いた絵本、7歳の女の子が主人公。絵本の最後は「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」というスマの言葉で締めくくられている。
丸木俊はあとがきに記している。「わたしには子どもがいないから孫もいません。でもこれは孫たちへの遺言なのです」

―1967年、埼玉県東松山に建てられた丸木美術館。位里の故郷の太田川に似ているから、この地が選ばれた。

―晩年の共同制作の貴重な映像(映画『劫火』より)。人間を描く俊、その上に墨を流していく位里。2人の芸術家としてのせめぎあいは、位里が亡くなるまで、実に40年以上も続いた。

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―今年8月6日、丸木美術館にて、とうろう流しの光景。そこには、丸木俊の思いを受け止めた孫たちの姿があった。

―アーサー・ビナードさんは3年前から、《原爆の図》から紙芝居を作る準備を進めてきた。

アーサー 《原爆の図》を目の前にして、その絵と見つめ合うと巻き込まれて、自分も当事者の仲間入りをする。そういう装置として働くんですね。ぼくは《原爆の図》がみんなを引き込んで一つの体験を共有するものとして作用していることに紙芝居との共通点を感じて、ある時から《原爆の図》は巨大な紙芝居なんだなと考えるようになったんですね。

―8月2日、広島市内の世界平和記念講堂マリアホールにて、アーサー・ビナードさん完成間近の『やわらかい はだ』紙芝居実演。

会場からの質問 子どもには残酷な感じがする。
アーサー 原爆の図は子どもが見てもいいと思っている。全然恐ろしすぎるという書き方じゃない。でもおっしゃるように、こっちが物語を作ると、子どもが見たらどうなのか考えなければいけないですね。

―皆の意見に耳を傾けるアーサーさん、完成までにはもう少し時間がかかりそう。

(最後に、スタジオにて)
黒柳徹子 皆さん、いかがだったでしょうか。私はアーサーさんが原爆の図を紙芝居にしたというのは、とても素晴らしいアイディアだと思います。私も子どもの時紙芝居を見ましたけど、ほんとに紙芝居は次にどんな絵が出てくるのだろうとワクワクしました。この広島の悲劇を、子どもたちが紙芝居で知るというのは、素晴らしい、大切なことだと思います。

《了》
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