2014/8/24

川口隆行+小沢節子対談「『はだしのゲン』を読み解き、読み継ぐために」  企画展

午後2時より、「はだしのゲン絵本原画展」の関連企画として、川口隆行さん(広島大学大学院准教授・原爆文学研究)と小沢節子さん(歴史家)をお迎えして、「『はだしのゲン』を読み解き、読み継ぐために ―核の時代の表現として」と題する対談を行いました。

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会場に用意した40席の椅子は、ほぼ満席。
美術館学芸員や大学教員など、専門的な研究者の姿も見られました。
非常に興味深い充実した内容の対談でしたので、以下に、抄録をまとめておきます。

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岡村(司会) 今日は、「はだしのゲン絵本原画展」の対談企画として、川口さん、小沢さんに、作品としての『はだしのゲン』を語って頂こうと考えています。
 はじめに、この作品との出会いや、どんなところに魅力を感じているかをお話し下さい。

川口 70年代から80年代にかけて小学校時代を過ごしたんですけど、学校で読んだ覚えがないんです。小学校4年生くらいに、行きつけの散髪屋で当時出ていた4巻までを繰り返し読んだ記憶があります。
 全巻読んだのは大人になって。2005年頃に必要があって再読したのですが、ベッドの脇に置いていたら、当時4歳の娘が自分で読み始めたんです。取り上げるのもどうかなと思っているうちに、私より先に全巻読み終わりました。
 ちょっと後悔したのは、全然手がかからなかった子どもだったんですが、数日夜泣きをしたこと。それが止むと、『はだしのゲン』の感想を話し始めました。「人間はね、お腹がすいたら犬を食べたらいいんだよ」とか、「人間はいつか死ぬんだよ。でも、意外と死なないもんだよ」と哲学的なことも言いました。彼女なりに「人は死ぬ」ということを知り、同時に「意外としぶとく生きていくもんだ」という受け止め方もしたんですね。
 これは『はだしのゲン』を読む上で重要な点だと思いました。学校の平和教育では原爆の落ちた後がクローズアップされがちですが、戦後になっても、ゲンたちが必死で生きていくなかで、多くの人が死んでいく。実は生き延びようとしていく「戦後の物語」なんだと思います。
 『ゲン』は去年の閉架問題のような政治的主張の良し悪しが話題になりがちですが、メッセージ性はもちろん外して考えることはできない一方で、身体感覚で感情を揺さぶっていく作品でもある、二つの要素が絡み合った漫画として面白いと思います。
 原爆について研究していると、さまざまな原爆の表現に触れる機会があります。『はだしのゲン』を読むと、中沢啓治という一人の被爆体験だけが反映されているわけではなくて、中沢さんが見聞きした話、メディア体験なども含まれている。個人の体験であると同時に、集合的記憶が埋め込まれているんです。
 《原爆の図》にも、丸木夫妻の体験だけが描かれているわけではなく、いろいろな人たちの体験が入り込んでいますが、『はだしのゲン』も丁寧に読み込んでいくと、先行する原爆の表現、体験が織り込まれた作品であるということがわかります。

小沢 私は10年ほど前に、大学の学生が『はだしのゲン』で卒業論文を書きたいと言ってきて、指導のために全巻読みました。彼は小学校に『はだしのゲン』があった世代で、漫画を読んで怖くて辛い思いをしたが、原爆や戦後史を学んであらためて『はだしのゲン』を読み返したらどう思うのかということを書きたいと思ったんですね。結論としては、身体感覚や情動に訴える部分が子どもの頃に怖かったけれども、それが漫画の魅力であり強さだったということに気づいたという論文でした。
 私は《原爆の図》をはじめ原爆表現を研究しているのですが、そういうことをしていると、多かれ少なかれ中沢さんに会うんですね。長田新編の『原爆の子』に中沢さんの体験が出てきますし、スティーブン・オカザキの映画『ヒロシマ・ナガサキ』にも中沢さんが登場します。そういう関わりといっしょに漫画を読んだという経験があります。
 中沢さんがお元気だった頃に、授業に来て頂いてお話を聞く機会もありました。印象に残っているのは、学生が「漫画に描いてあるのは本当のことなんですか」と聞くと、「基本的に本当のことなんだ」と答える。私が「骸骨に“怨”という字を書いて米兵に売ったというのは本当のことなんですか」と聞いても、「あれは自分がやったわけではないけれども、ああいうことはあったんだ」と。学生が「何が一番辛かったか」と聞いたときには、「原爆は辛かったけれども、原爆が落ちた後の方がもっと辛かった。原爆が落ちた時はみんなが地獄だったけど、戦後は同じ被爆した者のあいだに亀裂や差が出てくる。取り残された者たちは本当の地獄だった」と戦後の体験の過酷さを強調されていて、『はだしのゲン』の物語は1953年まで話が続くわけですが、「占領期の物語」という側面を面白く思っています。

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岡村 今のお話をうかがって、二つのポイントを設定したいと思います。ひとつは、中沢さんの個人の体験だけでなく、集合的記憶としての『はだしのゲン』が、時代や原爆表現にどう向き合い、取り込んでいったのかという点。
 もうひとつは「戦後の物語」としての視点。これは3.11後を生きる私たちにも重要な問題を提示していると思うのですが、あるいは「復興」に抗う物語かもしれません。この二点を中心に話を進めて頂くということでよろしいでしょうか。まずは最初の設問からお願いします。

川口 『はだしのゲン』には、被爆のときに唱歌の「海」を歌いながら、男性教師と子どもたちが輪になって沈んでいくシーンがありますが、『原爆の子』をもとにして1953年に作られた映画『ひろしま』の中にも、女性教師と子どもたちの同じようなシーンが出てきます。
 それから、戦後に進駐軍が来たときに、ゲンの仲間たちが「父ちゃん、母ちゃん、ピカドンで、ハングリー、ハングリー」と歌う場面があるんですが、これも映画『ひろしま』の中に同じシーンがあって、進駐軍にガムやお菓子をもらう。
 あと、映画の最後の方に、宮島の土産物売り場で、原爆で死んだ人のドクロを売るという話が出てきます。『はだしのゲン』の中にも、ドクロを掘り出して、ドクロの額に「怨」の字を書いて米兵に売って、米兵は「怨」の意味がわからずに「ナイス・デザイン」とか言って、お土産としてアメリカへ持って帰らせようとする場面があります。
 映画『ひろしま』に影響されているというよりも、映画『ひろしま』自体が『原爆の子』という作文集をもとにした集合的記憶から成り立っているんですが、『はだしのゲン』にはそうした集合的記憶が織り込まれていると言えるんですね。
 もう一点、『はだしのゲン』には、夏江と勝子という顔にケロイドの火傷をもった女の子たちが登場します。本当は踊り子になりたかったんですけど、火傷のために人前に立てず、二人でミシンを買って洋裁店を開くというのが夢になるんですね。ミシンを買って洋裁店を開くというのは、当時若い女の子にとってたいへんな憧れであって、広島の場合では原爆乙女という絶望にひしがれている女性たちが、ミシンで服を作って売りながら、自分の傷を回復していくということもあったんですが、こうしたいろいろな広島の体験・物語を『はだしのゲン』は上手に取り込んでいるんです。

小沢 『はだしのゲン』の連載は1973年6月から始まるんですね。60年代末から70年代初めまでに積み重ねられてきた原爆表現の歴史や原爆をめぐる認識を中沢さんが取り込んでいったのだろうと、私も思います。
 原爆が落ちたその日にお母さんが赤ちゃんを産むという話も、栗原貞子さんの「生ましめんかな」という有名な詩を連想させますし、米兵の被爆した姿を市民が見つけて石を投げるシーンがあるんですが、お婆さんが「アメリカのばかたれ、わしは一人ぼっちになったじゃないか」と恨みを述べながら石を投げて、「家を返せ、爺さんを返せ、娘を返せ、孫を返せ」と言う。これが個人の恨みから突き抜けて「平和を返せ、人間を返せ」となれば峠三吉になるわけです。

川口 隆太の父親代わりになる小説家のお爺さんが亡くなる前に自伝小説の『夏の終わり』を出版したいというので、ゲンたちが紙を探したりして奔走するんですが、GHQの検閲がありますから、普通の印刷所は印刷してくれない。どこが印刷してくれたのかというと、刑務所なんですね。実際には、正田篠枝さんの『さんげ』という最初の歌集が刑務所で100部秘密出版されたということがありました。
 探せばきりがないくらいにエピソードが放り込まれていますが、いろいろな人たちの記憶が織り込まれていくことが大事なんだと思います。

小沢 ここの美術館でやることの意味として結びつければ、《原爆の図》という絵も、そういうものであったと。それから、描かれている被爆者は、映画『ひろしま』や《原爆の図》で作られたイメージも投影されているんだろうと思います。もちろん中沢さんは実体験があるわけですけれども。
 それが描きはじめる時代までの積み重ねだとすると、73年から85年まで続いた連載では、同時代の新たな動きも取り込まれていく。さっき、米兵捕虜に石をぶつけてうんぬんというのがありましたが、そういうことが、ジャーナリズムであらためて取り上げるようになる。それから朝鮮人被爆者が大きな社会問題になってくる。
 今まで必ずしも公には語られてこなかった、抑圧されてきた原爆被害の記憶が語られ、被爆した市民の絵画なども描かれるようになる。原水爆禁止運動の分裂とはちょっと離れたところで新たな証言運動が出てくる。そういう動きを取り入れるかのように、さまざまな物語が描かれていく。特に朝鮮人の問題はそうですよね。

川口 そのときに、『はだしのゲン』に対して、つまんない批判――事実と違う、違わないという問題が出てくるんですよね。朝鮮人みんなが連行されたわけでは決してないと、私もそう思うんですが、みんなが連行されたように描いていて、それは極端だとか、嘘だとか言われる。
 事実誤認という批判もまったくわからないではないけれども、作者である中沢さんが、どのようにそのものを捉えていったのかという意味では、それは強調されて語られることもあるだろうし、事実ではないという批判はあまり生産的でないと思っています。

小沢 私は、川口さんが『中国新聞』に中沢さんの追悼文を寄せているのを読み返して、「原爆投下はやむを得ないことと昭和天皇が発言したのは、『はだしのゲン』連載中の75年のことだ。この発言に対抗するかのように政治的言説のようなものを描き込んだ」というので、ああそうか、と思ったんですが、ちょうど連載途中でアメリカから帰国した昭和天皇が中国放送の記者の質問を受けて「原爆が投下されたのは気の毒だけど、戦争だからやむを得なかったんだ」と答える。『はだしのゲン』の後半に昭和天皇批判が目立ってくるのは、中沢さんが同時代の反応として、漫画の中に描き込んでいるんでしょう。
 それから82年の歴史教科書をめぐる「侵略」を「進出」と言い換える検定の問題が出てくる、いわゆる第1波の戦後の歴史修正主義の台頭。最後の方に出てくる、政治的言説として批判されることの多い表現は、連載途中の政治的なコンテクストの中から出てくるんじゃないかと思うんです。

川口 そのへんが『はだしのゲン』をどう読むのか、立場が分かれてくるところだと思います。ゲンの演説には固い言葉が並ぶんですが、ある思想だけにはまった理念的な人物かというと、そういう言葉が説得力をもって聞こえる人として造形されている点が面白い。
 中学生が先生から習ったばかりのような、ある意味で幼稚な政治的メッセージをしゃべっているんですが、同じことを言ってもそれがつまらなく聞こえる人物もいれば、単純だけど当たっているよね、そうかもしれないと思わせる人物がいる。ゲンは後者なのだと思います。

小沢 ゲンの過剰なまでの政治的言説は、戦前のお父さんからはじまるわけでなんですが、ゲンの言葉は政治的言説であると同時に、啖呵を切ってるんだと思います。啖呵売というか、啖呵師というか、啖呵は喧嘩だけじゃなくて、大声で物を売る時の口上だとか、そういうときも啖呵って言うんですね。
 ゲンはいろんな口上を並べ立てて物を売ったりするんですが、そういうゲンの言葉と政治的言説は、一見違うもののようでいて、一人の人間のなかで両立している。政治的言説であり啖呵である言葉を使う子どもとしてゲンが造形されていて、もうちょっと言うと、ゲンは時代に啖呵を切り続けて生きている。それは中沢さんの同時代に向けての啖呵でもあるんだと思います。

川口 その中で、日本国憲法が大事だとか、戦争反対とか、ある意味で決まったような言葉が出るんだけど、ゲンがしゃべると説得力も持ってしまうのは、ゲンの中に、そうした言葉を梃子にして、理不尽な力に対して生き延びていく力にしているところがあるんだと感じます。自分が置かれている虐げられた状況とつながっていて、他人事ではなく自分に必要な言葉として発せられているんです。

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岡村 「時代に啖呵を切る」という言葉が出てきましたが、「戦後の物語」という視点はどうでしょうか。

川口 今週、広島で大雨が降って、安佐北区、安佐南区がたいへんな状況になっているのはご存知と思いますが、ぼくは広島という街に居心地の悪さを感じる部分があるんです。
 戦後、「平和都市」として出来上がっていくんだけど、挑発的に言えば、薄っぺらい、一皮めくれば平和でないというか、そもそも平和とは何かを問うてない。戦前と変わっていないという状況があるのではないかと思うのです。
 『はだしのゲン』で言いますと、戦争中に狭い共同体のなかで威張っていた町内会長が、戦後の民主主義になってどうなったかというと、何も変わっていないわけです。むしろ差別や矛盾、対立点が増幅されて残っていく。戦前から現在まで続いている社会構造や人間の関係があって、原爆はそれをより鮮明に、見やすくさせているのではないかと思う。ですから、原爆が落ちたところで話が終わるのではなく、その後もずっと生き延びていくまでの歴史が描かれているのがたいへん面白いと思います。
 そこで出てくるのが、「復興」に対する違和感です。「復興」とは、壊れたものが元あるように戻ること。もちろん傷ついた人や町が傷を治したいと思うのは当たり前ですが、本当に元通りになるのか。元通りになるというその前は、みんなが幸せだったのか。「復興」というなかで、「復興」しきれないものはないだろうか。
 『はだしのゲン』には、平和都市建設に対する痛烈な批判が随所に出てきます。ゲンの家族たちが最終的に住んでいた家も、平和都市建設法の道路拡張のために「お前ら立ち退け」と壊されるわけです。「原爆の悲惨さ」という以上に、「復興の悲惨さ」にこだわった漫画なんだろうと思います。

小沢 象徴的なのは町内会長さんですよね。戦前は町内会長としてゲンの家族たちをいじめて、戦後は結局、市会議員から県会議員になるんですよね。そのときには「平和日本」といったメッセージを発しながら成り上がっていく。そういう人物に象徴されるような、戦前から戦後まで実は何も変わっていないかのような権力関係の構造がある。
 ゲンは戦争とか天皇制とか大きなものに向き合って啖呵を切っているんだけれど、実際には大衆の隅々に巣食っている戦前から変わらない権力構造に抑圧されて抗っている。
 だから核被害者の困難とかトラウマとか苦しみという物語であると同時に、「復興」神話へのアンチテーゼでもある。そう思って読むと、今の私たちにも身近なものと感じられないことはない。大きなカタストロフィの後の亀裂とか分断とか断絶を描いた漫画として、新たに読み直されるものかもしれない。

川口 『はだしのゲン』の中に、「本当の敵を忘れて、差別して、いがみ合ってばっかりいやがる」という戦後の広島の人たちに対して言う台詞がある。決してみんなが協力して、一致団結して戦ったとかでなくて、裏切り、いがみ合い、だまし合い、憎しみ合い、殺し合いが延々と繰り返されています。
 広島の街には、戦後巨額の資金が入ってくるわけです。ヤクザがいっぱい出てくるのはまさに『仁義なき戦い』の世界で、なぜ広島で抗争するかというと、都市の建設で巨額の資金が流れ込むからです。縄張りや人員を管理するためにヤクザが浸透していく。
 平和都市建設のプロセスの中に暴力が含まれ、埋め込まれる。それが戦後の広島、あるいは日本のひとつのあり方なんですね。

小沢 同時に、そういうものを含む中で、強い思いが託されているのが、最近何人かの人が指摘しているんですが、『はだしのゲン』は「画家の物語」だということ。
 後で岡村さんも言うと思いますが、ゲンのお父さんは戦前のプロレタリア芸術運動にかかわった日本画家……ほとんど丸木位里さんと同じような画家で、実際、丸木位里さんと中沢さんのお父さんは同じ展覧会に出品していた。
 もっとも印象深いエピソードで、政二さんという画家を看病する場面も出てきます。それから、ゲンが看板屋に勤めるきっかけになる絵を教えてくれる絵描きさんも出てくる。
 すごくベタですけれども、芸術で人々の心を動かすことができるとか、芸術は現実から切り離した異なる次元を持つものなんだとか、そういうことが非常に前向きに訴えられる。そういう中でゲンも表現者として自立していきたいと思うようになる。
 いま川口さんが仰ったような、戦前から続く過酷な現実を対象化するものとして表現への憧れが出てくると思います。

川口 ゲンが面白いのは、非常に乱暴なんですよね。よく相手をぶん殴る。決して暴力反対ではなく、理不尽な相手に対して殴ってでも立ち向かっていく。
 腕っぷしが強いと同時に、歌もうまいし、絵も描くし、詩を口ずさむし、広島は浄土真宗の安芸門徒なんですけど、彼は5日間で浄土真宗の正信念仏偈と蓮如の御文章を覚えて、まわりの葬式に行って小銭を稼ぎ、自分の妹を救おうとするけど、救えなくて、結局、自分で覚えたお経で妹を弔うんですね。
 芸術の基本は模倣だとするならば、ゲンはある人たちの技術を学んでいって、上手に身体化して表現していく。きれいな骨壺を作ったりとか、乱暴な人間であると同時に、表現に対して特異な才能を持った少年として描かれていて、暴力を昇華していくんですね。

小沢 苦しみと怒りに追われているだけの物語ではないので、若い読者が直感的に理解できるものがあるんだと思います。

川口 ゲンはよく怒るんですよね。先ほどの芸術との関わりもあるのですが、怒ることは悪いのか、と自分は悶々と悩んでいるんです。
 怒るという感情は自分を滅ぼすこともあるし、他人に対して攻撃的にもなる。でも怒ることがなかったら、自分たちの置かれている不当な立場に向かっていくことができないし、怒るという感情はとても大事だと思うんです。
 怒るというのはどこにいくかわからない、人を壊してしまうかもしれないし、状況を切り開いていく力になるかもしれない。ゲンは怒るんだけど、その感情に乗っ取られることがないんですよね。怒ることがどういう意味を持つのか、『はだしのゲン』を通じてずっと考えているんです。

小沢 つい先日、練馬区立美術館で『あしたのジョー』の展覧会を見てきて、丈が力石徹と戦うあたりは同時代で見ていたんですが、冒頭場面の原画を見ていたら、15歳くらいになって養護施設を出てきた孤児の少年が東京の辺境にたどり着くところから始まる物語だった。10年のタイムラグはあるものの、まるで広島から東京に出てきたゲンじゃないか、『あしたのジョー』は東京に出てきたゲンの物語だったのかと、そう結びつけて思いました。
 丈は東京に出てきて、はじめは孤児たちを集めてユートピアを構想するけれども、少年院に送られてボクシングに目覚めていく。ボクシングという括弧つきの暴力による自己実現を目指す孤児の物語です。結局、興行化された暴力・ボクシングで燃え尽きてしまう物語の連載が終わるのが1973年の4月20日で、そのひと月半後の6月4日から『はだしのゲン』がはじまるんですね。
 今までそんなふうにつなげて考えたことはなかったんですけど、やっぱり孤児の物語、戦争を引きずって一人で生きる少年の物語、そういう少年たちがどうやって大人になったのか、なれたのかということを、『はだしのゲン』の最後のシーンとともに考えたりもしています。

岡村 最後に少しだけ。『はだしのゲン』を読んでいくと、丸木位里と重なる点が多いんですね。戦前に中沢啓治のお父さんは演劇をやっていたんですが、プロレタリア演劇活動というのは、まさに画家になる前の位里がやっていたことであり、同じ広島の日本画家として同じ県美展に入選していて、位里の方が年齢が上で、立場も上なんですけど、その展覧会の会場が今の原爆ドームになっている、産業奨励館だった。
 あるいは、ゲンが看板屋で絵を学んでいくというのも、位里が最初に広島に出てきて勤めた仕事が看板屋だったことと重なる。もうひとつ、さっき「怒り」ということが出てきましたが、「怒り」に対してゲンが乗っ取られないで、広い意味での表現に転化させる、状況を変えていくという点は、丸木夫妻が《原爆の図》に怒りをぶつけていく過程とも重なって見えるんですね。
 『はだしのゲン』と《原爆の図》は、社会のなかでの叩かれ方も似ているんです。「ことさら声高に怒りを表現するのではなく」という社会的な主題の芸術を評価する際の常套句は、むしろその常套句を使うことで芸術の可能性を狭めていると思うんですけど、「ことさら声高な表現」の代表例として《原爆の図》や『はだしのゲン』が言外に否定されることが多い。
 けれども、そうした色眼鏡を外して、怒りを表現に転化させていった芸術だってあるんだというふうに見ていく必要があると、最近特に考えています。

川口 以前はよく、「怒りの広島、祈りの長崎」という、それこそ常套句が言われていたわけです。広島は政治的に反核運動やっていて、長崎へ行くとキリスト教の、永井隆以来のお祈りをするイメージがある。ぼくは怒ることと祈ることを対立的に別個の感情と離すことに違和感があって、ゲンの御文章ではないけれども、深いところで二つは結びついていると思ったりもします。
 あと、「祈りの長崎」と言われていたはずなんだけど、ここ数年の「平和宣言」は、長崎が一番怒ってますよね。市長と被爆者代表の挨拶が連携しながら、今の状況や社会のあり方に対して、人を抑圧する怒りではなくて、必要なものに対する真っ当な感情を公的にちゃんと表現している。
 それに対して広島は腰砕けというか、取り込まれているというか、怒りでもなければ、祈ってもいない。「祈りの長崎」が真っ当な怒りを、長崎もいろいろあるとは聞いていますけれども、それでも真っ当な怒りを表明できているのは面白いと思っています。

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(質疑応答は省略、撮影は丸木美術館事務局・山口和彦)

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たいへんお忙しい中、ご来場くださった川口さん、小沢さんに心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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