2014/7/23

久しぶりの丸木スマ展示室  作品・資料

ひろしま忌も近づき、午前中は事務局員のYさん、午後は岡村が順番に草刈りを行いました。
とうろう流しを行う都幾川へ続く河川敷の道の整備です。
炎天下で道なき道の草を刈る作業は毎年たいへんで、自然と人間の共生の困難さを実感します。

さて、この夏は、久しぶりにひと部屋を使って「丸木スマ展示室」を設けました。
展示作品は全部で8点と決して多くはありませんが、今回の見どころは、スマさんと直接的、間接的に縁のあった各界の人たちがスマさんの絵について語っている文章などを、絵とともに抜粋して展示している点です。

今までやったことのない試みで、意外な人物との接点が興味深く感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

以下は、スマさんの絵と文章によるバーチャル展示。
ぜひこの機会に、実物をご覧になることをお勧めします。展示は9月6日まで。

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簪(かんざし) 1955年

 俊先生が、「簪」と題せられた作品について、スマさんの「生涯の曼荼羅図(まんだらず)となりました」と書かれているけれども、すべてからうつつに匂い立ってくるのは、現代のわたしどもが、観念としてしかとらえられなくなっている曼荼羅の世界である。
 ひとりの田舎の、名もない(位里先生の母堂とはいえ)百姓老婆の上に蘇ったこの世界は、たぶん現代という荒野に起きたひとつの秘蹟ではあるまいか。神さまがひそかに約束なされていた地に、ほかならぬ丸木スマというしるしの血に、それがあらわれたのだとわたしには思える。
 日本という、かつては香しかった地が、人類史の悪しき必然の中で、本来の姿を喪ってしまった時に、丸木スマという耤(せき)やしていた老いた女に悲しみの地の霊が宿り、神は約束の土地の、血を受け継ぐものに、香しいしるしの世界を、ひらかせ給うたのではあるまいか。丸木スマの手を借りて、それを描かせ給うたのではあるまいか。


 ――石牟礼道子「黙示的な野の光」(1985年)より

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ひまわり 制作年不詳

 ゴッホの「ひまわり」の絵は一度見たら忘れられない。が、あえていうとすれば、ぼくは丸木スマの「ひまわり」の印象のほうが強烈だ。たったの一輪が、花びらと葉を大きく広げてすっくと立ち、茎の下までは描かれていなくても、切り花じゃなしに逞しく根を張った向日葵だと分かる。日光を集め、地中から水分を吸い上げている力が、絵から確実に伝わってくる。そしてその構図よりも、大胆なのは色だ。向日葵の茎も葉もコバルトブルーに描かれている。

 ――アーサー・ビナード「村の夕暮れ」(2004年)より

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村の夕暮れ 1954年

以前、原爆の図丸木美術館で開催された「丸木スマ」へ出かけ、「ひまわり」をはじめ八十点の輝かしい絵に会ってきた。「村の夕暮れ」と題した風景画の前で、ロングフェローの「いまわの挨拶」という詩が、久しぶりに頭に浮かんできた。

  For age is opportunity no less
  Than youth itself, though in another dress,
  And as the evening twilight fades away
  The sky is filled with stars, invisible day.

  見栄えは違うが、本当は老いが、若さに
  負けないくらいの可能性を孕んでいる。
  日が沈み、夕闇が迫ると、昼間はまったく
  見えなかった星が、天いっぱいに現れる。


 ――アーサー・ビナード「村の夕暮れ」(2004年)より

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河童 制作年不詳

 この本のために、私は諸先輩に奇妙奇天烈なお願いをした。四十三篇をそれぞれ異なった人たちのカッパ・カットで飾りたかったからである。これまで一度もカッパをかいたことのない人たちが多かったにちがいないし、多分、私の依頼は突飛で変てこな無理難題であったであろう。それにもかかわらず、承諾して下さった方々が次々にカッパのカットを寄せられ、私を狂喜させた。特に、つけ加えておきたいのは、お婆さん画家丸木スマさんのカッパが入ったことである。八十数歳で絵をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、画集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマさんが、火野さんはカッパ好きだからといつて、生まれてはじめてというカッパの絵を彩色入りでかいて下さった。ところが、そのスマさんは、気の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カッパの絵が形見みたいになってしまった。

 ――火野葦平『河童曼荼羅』(1957年)より

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内海の魚 1954年

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暮れる畑 1952年

 何という自然讃歌だろう。スマさんの絵心に畏れを感じた。誇張でなく哲学的で、一見童画風ながら、まったくちがう。人生の苦惨を経た人の、無心な絵に心をうばわれたのである。「動物」も「仙人」も「内海の魚」も「暮れる畑」も、みな丸木スマの稀有な七十こえてから拡得した、云いかえれば、七十すぎて噴きだした芸魂の所産である。誰からも教わらずに、自分ひとりが、永年自分の眼で見てきたものを、紙に描いた。背景の色彩の使い方の妙は吐息を呑ませる。これはもうスマさんの心田に培われた感性で、唯我独尊である。

――水上勉「丸木スマの芸術」(1984年)より

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凡夫人とスケッチ 1955年

 「目が見えんようになったら、手さぐりで描きます。
絵を描きはなえてから、面白うての。
こりゃ、まだまだ死なりゃせん思うて。
わしゃ、今が花よ」
と、言いながら、末川凡夫人(ぼんぷじん)たちと、
元気に、スケッチに出かけていきました。


 ――丸木スマ画集『花と人と生きものたち』(1984年)より
 ※ 末川凡夫人は、丸木位里と親しく交流した広島の油彩画家

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めし 1950年

『めし』は、前の画集では、
右側を上にした、たて長の絵として収められています。
私も、その方が気に入っていたのですが、
いつの頃からか、横にして飾られるようになりました。
どうしてそうなったのか、調べてみました。
落款が、横に飾るように押してありました。
描かれて、しばらくの間は、落款が押されてなかったのです。
“砂麻”と彫られたこの印は、おばあちゃんとなかよしだった、
浜崎左髪子(さはつし)という絵描きさんが、作ってくれたもので、
おばあちゃんは、たいへん気に入っていました。
『めし』は、たてに見ても横に見てもよい絵なのです。
めしを喰う猫の背中を、真上から見ているのです。


 ――丸木スマ画集『花と人と生きものたち』(1984年)より
 ※ 浜崎左髪子は広島の画家で、老舗の和菓子屋・平安堂梅坪の包装デザインを手がけています。
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2014/8/16  9:33

投稿者:okamura

佐藤秀明さま
はじめまして。コメントありがとうございます。平安堂梅坪にお勤めの方なのですね。以前、広島に伺った時、左髪子デザインの包装紙を資料用に欲しくて、店員さんに無理を言ってきれいな状態の包装紙を分けて頂いたことがあります。とても立派な画集も刊行されていますよね。
スマさんは1949年の戦後第1回県展に左髪子が2点表装して出品し入選したとの証言があるのですが(だとすると、それはスマさんの最初の入選に当たるのですが)、裏付ける資料が見つかっていません。
当時の新聞にも入選者の一覧は出ていないようです。
もし、ご存知のことがございましたら、ぜひご教示ください。

2014/8/3  9:35

投稿者:佐藤秀明

はじめまして。私は広島の平安堂梅坪に勤めており、浜崎左髪子さんから戦後広島の芸術家について少し調べている者です。バーチャル展示有難うございました。関東は遠くてなかなか行く事が出来ませんので、拝見出来てよかったです。しかしこれだけ多くの画家がいる中で、スマさんの絵が飛び抜けて魅力的に見えるのは、ほかの多くの絵が、何か大事なものを失っていたり弱かったりするものなのでしょうか。


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