2014/1/7

『中日新聞』文化欄「そして戦になった」  掲載雑誌・新聞

2014年1月7日付『中日新聞』文化欄の連載「そして戦になった 第1次大戦から100年」の第1回に、丸木俊(赤松俊子)作《アンガウル島へ向かう》が紹介されました。

1940年に当時日本の委任統治下にあった「南洋群島」パラオ諸島を訪れた俊の作品と、日本各地の戦争の遺構を撮影し続ける若手写真家の下道基行さんのテニアン島を舞台にした「torii」シリーズと対比しながら、時代の異なる南洋の「統治の風景」を見つめた二人の視線を交錯させるという企画です。
担当は宮川まどか記者。下道さんの仕事は、以前からとても興味深く思っていたので、こうしたかたちで関わりが生まれたのは、とても嬉しいことでした。

以下、記事から一部を抜粋いたします。

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丸木俊(赤松俊子)「アンガウル島へ向かう」 1941年 個人像

 「南進論」を唱え、日本は第一次世界大戦の勃発を機に南洋群島を占領。大勢の日本人が南を目指した。日本は第二次大戦への道をひた走り、南洋はやがて死闘の地となる。そうした危うさをはらみつつも、原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣(39)は「俊が滞在したのは最も幸せな時。『外にある日本』へ異国を見に行く感覚だった」と推測する。

 その通り俊は当初、光注ぐ島の暮らし、人々を、明るい色で描いた。フランス人のゴーギャンがタヒチを楽園として表現したように。が、彼らとの仲が深まるにつれ、別の考えを持つようになる。「見る側」から「見られる側」へ。転換を如実に示すのが、四一年制作の「アンガウル島へ向かう」だ。

 パラオの南に位置するアンガウルには、畑の肥料になるリンの鉱床があった。俊が描いたのは、リン掘削のため、狭い船室に押し込められた黒い人影。第二次大戦に備え、日本に搾取される現地の人々の姿だ。「かび臭さが漂うような暗い絵には、島の人への共感がにじむ。日本人である俊は、深く葛藤していたはずだ」と岡村は言う。

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 二〇〇六年、美術作家で写真家の下道基行(35)は旅行者として、旧南洋のテニアン島を訪れた。現れたのは、生い茂る草の中にそびえ立つ鳥居。戦後、米自治領となっているその場所が、かつて間違いなく日本だったという証しを目の当たりにし、レンズを向けた。

 「風景は現在までのさまざまな時間が積み重なってできている。鳥居を媒介にすることで、そういう時間の地層から一つの時代が見えてきた」。以来、六年かけて台湾、韓国など五つの国と地域をめぐって鳥居を撮影、「torii」シリーズに結実させた。

 放置されたもの、倒されてベンチとして使われているもの、あるいは撤去されてしまったもの…。鳥居を中心にした風景は、歴史解釈の在りよう、地元民の感情が決して一様でないことを物語る。そしてそれは、戦前の日本の統治の歴史とも密接なかかわりを持つ。

 「鳥居のとらえ方を見ても、世界は複雑であいまい。イエスかノーかではない。一定の方向で分かりやすくとらえようとすると、必ずゆがみが出る」。下道は続ける。「国境だって、地図上の線。いつの間にか引かれ、いつも揺らいでいる」


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「他者に対する不寛容さが増しつつある今、美術家の手でさらされた過去をどう見るか。われわれは試されているのかもしれない」という言葉で結ばれているこの記事は、未曽有の惨禍をもたらすことになった100年前の戦争のはじまりと現代の「戦へのきざし」を、さまざまな分野を通して重ねるという試みだそうです。

時局を見据えた素晴らしい企画をして下さった宮川記者に、御礼を申し上げます。
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