2013/12/21

「木下晋展」記念対談:木下晋+水沢勉  企画展

午後2時より、「木下晋展 生命の旅路」の関連企画として、神奈川県立近代美術館の水沢勉館長をお迎えして「木下晋の仕事をめぐって」と題する記念対談を行いました。

寒い時期にもかかわらず、会場には約40人の方々が来場して下さいました。
対談は1時間半にわたり、文章に起こすとかなり長くなってしまいましたが、非常に興味深い内容だったので、以下に抄録をお伝えいたします。
充実したお話をして下さった水沢勉さん、木下晋さん、本当にありがとうございました。

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水沢 今回の展覧会では、今年の夏に描かれた最新作の《合掌図》から、16歳で最初に描かれた《起つ》まで、ちょうど50年、半世紀の仕事を一望できます。
6年前の梅野記念館の個展でも油彩画は何点か展示されていたけれども、独立した部屋ではなく、エピソードというかプロローグ的な紹介でした。今回の展示は油彩画がまとまって見られて、現在の鉛筆画の仕事とのつながりがよく見える内容になっていますね。

木下 実は90年代に池田20世紀美術館で個展をした後、ヨシダ・ヨシエさんに「丸木美術館で個展をやらないか」と誘われて。その後すぐに俊さんが亡くなられて、美術館もたいへんなことになってしまったんですけど、今回ようやく実現したんです。

水沢 『はじめての旅』という最新の絵本の原画からはじまって、建物の空間の区切りが作品の内容にうまく寄り添いながら、近年の木下さんを有名にした鉛筆画の世界に続いている。
画家の世界は、創造のエネルギーを絶えず供給しながら、年輪のように変わっていっても、ひとつの樹であるということを、この展覧会を観ながら感じます。今日は、木下さんの創造の根幹に何があるのかということをお聞きしたいと思いました。

木下 幼い頃の家庭の事情や母親の存在がずっと自分のコンプレックスだった。しかし、ニューヨークで荒川修作に出会って、「君は芸術家として素晴しい環境に生まれ育った」と言われて、「えっ」と思い、自分の考えていたことが逆転したんです。「君はもっと母親のことを知るべきだ。母親を描け」と言われて、何をどうしていいかわからなかった。でも、母親をモデルにして絵を描くというのは、ひとつの免罪符なんですね。対話を繰り返しながら、「この人の生き方は、俺には絶対にできない」と考えが変わってきた。

水沢 荒川さんにお会いされたときには、まだ色彩のある油絵を描いていたんですね。鉛筆画としては、お母様の絵が最初ということで、人生の転機になった。木下さんって不思議なんですが、あまり結びつかないけれども、瀧口修造さんとも交流がある。

木下 それは自分のいい加減なところで……1969年に村松画廊で個展をしたんです。そのとき、瀧口さんはすでに著名な詩人であり、美術評論家でもあったわけですが、隣村の出身なんですね。それで、電話をかけたんですよ。そうしたらご本人がでられて、「行きます」って。画廊主の川島さんも信じてくれなくて、「来るわけないだろう」って言っていたんですが、本当に来ちゃったんです。そうしたら川島さんもオロオロしちゃって、そのくらいたいへんなことだったんですね。

水沢 木下さんは、基本的にたいへん破天荒なんですよ。画壇の権威とも関係ないし、美術学校のつながりもないし、16歳の一種「天才少年」として認められて出てきたけれども、独学と言っていいわけです。
そのなかで今回出ている《起つ》は、木下さんの出発点を知る重要な作品だと思いました。でも、描き方としてはとっても変なものなんですよ。絵を描くための下地が、どう見ても普通のものではない。もっとも廉価な合板にクレヨンで描いているんですよね。絵を描くときに常識としてある前提を飛び越えているというか、無化している。

木下 自分は美術学校を出ているわけではなくて、中学のときに美人の美術の先生に誘われて夏休みに彫刻を作って、富山大学の今でいう市民講座のような研究室に参加したんです。そこには、いろんな年齢の生徒が集まっていた。
初めてヌードモデルも描きましたが、13歳だったので、目の前でモデルさんが脱いだら頭が真っ白になった。そのことを後に『芸術新潮』に書こうとしたら、同じような体験をした画家がいるからだめだという、それが池田満寿夫だった。池田満寿夫は二度とモデルを見て描けなくなってしまったそうで、ああ、オレより純粋な画家がいると思いましたね。
研究室には、専門分野の違う文学部や工学部の先生がいて、中学生の作った彫塑のとなりにロダンを並べたりして、そんな普通はちょっと考えられないような、思いもよらない発想が出てくるんです。最初からそういうところにいたわけです。

水沢 どのようにものが評価されたり、見えるかといったことが、凄く自由な場であったわけですね。それは決定的なことですね。技術というよりも、どのように感じるか。

木下 今の美術大学と違って、専門的な技術がどうこういうのではないんです。絵のことは言わないんですよ。そういう問題じゃなくて、もっと本質的な、ものの伝え方、なぜそういう表現をしたのかといったことが、話し合われる。

水沢 いわゆる美術の専門家でない人たちがまざっているのは、すごく少年にとっては大事ですね。美術の専門家だとどうして上級者が初級者に指導するようになるけれども。

木下 70代のおばあちゃんもいました。そのおばあちゃんががんばるんですよ。今と違ってすごく寒い教室で、毎日がんばって5年連続で県展で金賞になったりして。そういう人を見ていたら、がんばらざるをえないんですよ。そういう雰囲気がありましたね。今の美大生はダメですね。才能あるないの前に、まず、やらない。

水沢 やはり最初に肝心な体験をされているんですね。世界的に優れたアーティストも最初は美術以外の、心理学とか哲学とか、人類学とか、そういう勉強をして美術に入る人が多いですね。基本的な思考の訓練がないと、アートは技術になっちゃう。

木下 ラインハルト・サビエのノルウェーのアトリエに行ったことがあるんです。彼は40ぐらいからはじめて、にもかかわらず執念で制作に取り組んでいる。つまらんことは言わないけど、非常に参考になるんですよね。

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水沢 最初の《起つ》に戻ると、描き方も普通じゃないんですね。おそらく下地がバサバサだから、絵を描く作業も非常に無駄の多い、ものすごくエネルギーが投入されている。クレヨンで描いているので、ひとつひとつのタッチをディテールで積み重ねていく描き方ですよね。鉛筆画になっても木下さんの作品は、構図がうまい下手ではなく、ある密度で端から端まで作りあげていくディテールの積み重ねです。《起つ》も、普通の絵具であれば面で一気に塗れるところを、雪が降り積もるように絵具も降り積もるような、そういう絵の描き方は、アカデミックなところではどちらかというと排除されるように思うんですよ。
例えば靉光のクレヨン画も、どう描いたのかまったくわからないです。構図は当人もあまり気にせず、上手い絵を描こうという発想ではないから、端からイメージを追及して積み重ねていくと、誰も一度も見たことがない色や形になるという世界を発見していくわけですね。それはもう、自分一人でやるしかないという腹をくくったから発見できたと思うんですね。
木下さんの作品にも最初からそうした覚悟があって、しかも描きたいという強い衝動があって・・・少年の頃、すでに芸術家に対する憧れというのはあったんですか?

木下 もちろん最初は印象派で、ミレーとかゴッホとか、シャガールとかをくぐって来たんですけど、具体的にどうこうというより、なぜここまで描けるのかという憧れだったですね。畏敬の念からはじまって、自分はどうなのかということですよね。

水沢 16歳のときあの絵をお描きになられて、東京で発表するわけですけど、そのとき作品を見て下さったのが麻生三郎さんだったんですね。

木下 最初に富山大学の木内先生に見せたんですよ。そうしたら、「ぼくは彫刻家だから絵のことはわからん、麻生くんを紹介しよう」ということになったんです。それで当時三軒茶屋にいた麻生さんのところへ行ったんです。絵を見せても何も言わないんですよ、あの方は。だけど彼のアトリエは絵そのものの世界なんですね。絵が出来上がっていくプロセスを目の当たりにして、その中に自分の絵を置いたら、もう一目瞭然なんです。だから、いつも麻生さんのところに行くときは戦いだったですね。あの中に今描いてる自分の絵を置いたら、もつのかと。ほとんどメタメタにやられましたよ。

水沢 優れた絵描きさんのところに絵を持って行くということは、絵を見てもらうというより、その人の空間の中に自分が入っていくということなんですね。

木下 麻生さんはムサビで教えていましたけど、誰がいるからどの大学へ行くというふうに、当時の画家はもの凄く影響力が強いんですよ。教え子が皆、麻生さんの絵のようになっていくんですね。そうすると、気づいたときはそこから抜け出すのに非常に苦しむんですよ。ぼくの親友も苦しんで、あるとき、「やっと自分の絵が描けたから見てくれ」と言われて、それから3日後に亡くなりました。

水沢 そのくらい、麻生さんの世界に取り憑かれるとなかなかね。

木下 少し前に国立近代美術館で展覧会やったでしょ。あれ見るとね、いい作家ですよね。

水沢 いい作家です。筋が通っている世界ですね。
木下さんは、ある意味、日本近代美術の昔の良い部分の構図の中からデビューしてきたと思いますね。絵描きらしい絵描きが生まれる構図といいますか。それが瀧口さんや洲之内さんにもつながる。木下さんの作品を見ていると、つい靉光が浮かんできますし、おのずと村山槐多とか、日本近代の一番いい精神と地続きな部分を感じます。

木下 麻生さんには自由美術への出品を勧められて、そのときに「広隆寺の弥勒菩薩像を見たらどうか」と言われたんですね。ぼくはあまり関心がなかったんですけど、麻生さんが言うから行ってみたんですね。そしたら、とても人間の技とは思えなかった。自然にその形になったように感じた。人間って、ここまで到達できるのかと思った。それから毎年京都に通いました。

水沢 おそらく木下さんが、最初に彫刻を作られたという体験ともつながってくるんでしょうね。そういうものって、こういう作品の中にもありますよね。絵画よりも彫刻、というか空間の問題だろうと。絵画はどちらかというとイリュージョンを作り出す装置で、そこにあるかのように見える。木下さんの絵も、もちろんイリュージョンなんだけれども、むしろ立体物に近い存在感を感じる。おそらく桜井さんのハンセン病で崩れた姿を絵画的な方向だけで描いたらおぞましい印象というか、恐怖感に偏ってしまうけれども、ここまでディテールを立体的に存在として捉えようとしているから、ぼくらも純粋に見ることができる。

木下 人の顔を描くときには、普通は顔の基本的な骨格に沿って描く。でもこの人の場合は、どういうふうに描いたらいいのか、今までの顔の概念が崩された。それでも、この人と話しているとまったく普通なんです。その普通さが異様というか、本当はこの顔にふさわしい人格をこちらが期待していたのかもしれない。

水沢 木下さんの作品は人間がすごく大事なモチーフになるんだけれども、ヨーロッパ絵画の人間中心主義とは違うものを感じます。ことさらな作為ではなく、自然な行為の積み重ねがこういう作品になっていくのだろうという印象があるんですね。最新作の祈りの手の作品も、宗教性といえば宗教性だけど、ことさらなものじゃないですね。

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木下 20年前に鶴岡市の湯殿山注連寺というお寺を再興するために天井画を描くことになって、そのとき住職がとんでもないことを言ったんですよ。「何を描いてもいいけど、1000年後に残るような絵を描いて欲しい」と。だけどそれが一番大変なことなんですよ。1000年と言われても、その頃は油絵から鉛筆画へ移りつつある時期だったけど、鉛筆と紙じゃ1000年は残らないわけですよね。

水沢 中国では紙のものは200年もつと考えられています。だから、200年たつと必ず写しておく。そうしないと伝線しないと。実際もっともっているものはたくさんありますけどね。

木下 当時、平城京から1300年前の木簡が出た。それが墨と木だったんですね。ただ、ぼくは墨の素養が全然なくて水墨画は描けないわけです。それで鉛筆のように線で構築していったんです。材料はそれでよかったんだけど、1000年後って人間が何を考えてるかわからんでしょ。だから、ひとつの宗教じゃなくて、あらゆる宗教に共通するものは何かと考えたんですね。それが合掌図だったんです。手の組み方は仏教でもキリスト教でもイスラム教でもそれぞれ違うんですけど、でも基本的にはね。

水沢 最新作の手の構図は、結果的に、16世紀のドイツルネッサンスのもっとも有名なデューラーの《祈る手》と構図がいっしょになっている。クラシカルな構図ですけど、しかし、《天空之扉》は真正面という非常に特殊な構図を選ばれた。

木下 なぜこんな構図にしたかというと、注連寺の本尊は大日如来なんですが、天井画を上にあげたときに仰ぎ見るようになる。ここから上はいわば天界で、合掌図が開いて、親指が大日如来で天界に導かれるという感じで構図を考えたんです。

水沢 そのとき、広隆寺の弥勒菩薩のような、仏像の影響はあったんですか?

木下 先ほど言ったように、ぼくは16歳の頃から、日本に仏教が伝来した時代の百済系のものが好きで、広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩をずっと毎年見ていた。もともと仏教的なものが好きなんですね。

水沢 直接的な影響というよりは、資質というか、彫刻的な結びつきが木下さんのなかにあるのでしょうね。《天空之扉》のある注連寺も、すごく特殊な信仰の場所ですよね。

木下 奥州藤原氏の末裔があそこに葬られていて、即身仏もある。ぼくは四畳半のアトリエで寝泊まりしていたけれども、3か月間、常に誰かに見られている気配がした。いつもなら絵を描いてるけれども、完全に描かされている。いろいろと不思議なこともあり、死ぬのかなと思うこともあって、あの天井画で新聞にも大きく取り上げられたけれども、もう二度とああいう仕事はやりたくないですね。

水沢 普通の絵描きさんは、だいたい自分のアトリエで描いて納めますよね。現場で描くことの不思議さですよね。

木下 ぼくのアトリエ狭いんですよ。家で描けないんです。

水沢 それは素晴らしい経験でしたね。たいへんなことがあったとはいえ、このときの特別な体験をきっかけに、モノクロームの世界に完全に入っていくんですよね。私も注連寺に行って天井画を見ましたけど、きれいな美術館に運んできて作品を見るのとは全然違う体験になるんですね。

木下 うちの女房が寺だからご飯食べてないだろうと思って、ウニとか高級な食材を送ってくるんですよ。でもそのまましまっておいて、忘れてしまうんです。2週間とか放っておいて、気がつくともう滅茶苦茶になっている。物欲がなくなって、もったいないとか思わなくなるんですよ。

水沢 ミケランジェロも、天井画を描いているとき疲れてしまって這うようにして寝床に帰るんだけれども、靴を脱がない。それで、完成したときには皮膚といっしょになってしまって、もう靴が脱げなくなってしまったという話がありますね。
1000年も残るものを作る機会は芸術家にはなかなかないでしょうけど、注連寺の天井画は、木下さんの画業のちょうど中間の、モノクロームに切り替わる一番大事な作品なのでしょうね。美術の世界の約束事とは少し違う、特別で濃密な経験を経て、結果的に、人間の精神の生きる死ぬという根幹にかかわるようなテーマが、木下さんの鉛筆画の世界に、単なるリアリズムとは違ったものを生み出して、その後も小林ハルさんや桜井哲夫さんのような、普通の絵描きさんとは違う出会いを導いたのでしょうね。

木下 ぼくの場合は、決して計算しているわけではないんですね。例えば、重要な出会いになった小林ハルさんにしても、ニューヨークから帰ってきて落ち込んでいたときに、洲之内さんに連れられて新潟の出湯という辺鄙な温泉の一軒しかない湯治場に行って、バスに乗り遅れて東京に帰れなくなって、宿の主人にごぜ歌を勧められて偶然聞いたんです。彼女の第一声で、今まで聞いていた音域と違う只者ではない世界に打ちのめされたんです。それから、これはどうにもならないと思って、小林ハルさんを描きたいと1年以上通い詰めたんです。

水沢 瀬戸内の豊島の古民家にこのシリーズが飾られていたんですけど、屋根裏のような暗い場所で、こうした美術館で観るのとは全然違うんですよ。あの場所の小林ハルさんも凄くいいですね。時空を超えてやってきたという感じがしますね。
おそらく木下さんは13歳のときに大学の先生たちと話をして、大人としての精神的な目覚めを体験されて、それから今度はアメリカで人生の眼が大きく開かれたという、弁証法的と言っていいのか、人生の根幹を探し出す仕事を重ねられて今があるんだと思います。

木下 ハルさんにしても、桜井さんにしても、この人たちが何を感じているのかが大事なんです。別に障害者でも何でもないんです。この人たちを障害者と思うのであれば、こっちの方がよっぽど障害者なんです。ハルさんのお話を聞いていると、全部映像になって、色を感じるんです。

水沢 芸能、広く芸術と言ってもいい世界は、別の時空を媒介にしてこの場所に持ってくるものなんですね。それが表現の一番強い力であって、絵も考えてみればそういうものじゃないですか。ただ形を写すとか、もちろんマーケットの仕組みとしての絵は当然あるんですけど、一番根幹に何があるかというと、やはり世界を別の世界に橋渡しするというか、そのことによってぼくらはその場にない何かを経験できるし共有できるという、体験の共有の場が広がるもの。おそらくモノクロームの世界になって、色はないようだけど、この木下さんの絵のなかにはさまざまな何かがある。

木下 ただ視覚を通して見るのではなくて、五感を駆使して「見る」というかね、ハルさんも生後100日で視覚を失ったけれども、残った感覚で「見る」意識があって、じゃあ、ぼくらがものを見ているかと言うと、何も見えていない。光の具合でいくらでも見え方が変わってくる。視覚というのはその程度のものなんですね。

水沢 木下さんの世界は、人間の純度の高いドキュメントになっている部分があるので、モデルの精神性が必ず感じられる。でも今回の展示を見ていると、まだまだ足りないという木下さんのつぶやきが聞こえてくる。もっともっとという気持ちが、作品を後ろから突き動かしている。

木下 ぼくは本当に人に助けられている。自分では全然できないですよ。

水沢 うん、自分ではそこまで行けない。浮力のようなものに支えられながら、洲之内さんもそういう人だったけど、絵に没入してしまっているような制作のあり方が、洲之内さんも大好きだったのではないか。上手い下手ではなく、絵の中にすべてを投入してしまったような。

木下 洲之内さんも絵がうまいですよね。生きているときは絶対に表に出さなかったけれども、あの絵が洲之内さんのものでなかったら、洲之内さんに紹介できるほど、結構あの人は描けました。

水沢 洲之内さんは木下さんを見出した重要な人であるわけですが、木下さんの中に、創作する世界の中に没入したいという思いを凄く感じるんですね。そして没入するには、表現が限られている方が没入できるというポイントがあったんじゃないか。鉛筆画も墨絵も、感覚が一部閉ざされるわけで、そうすると他の感覚がより目覚めるという仕組みの中で木下さんの世界が生まれてくるとぼくには感じられる。それがまたたいへん興味深いのは、決して安定していないということ。そのたびに新規巻きなおしという風になる。基準ができていて、これにはこう当てはめて「一丁あがり」というのがないですね。

木下 それは絵が下手だからでしょうね。

水沢 そうかも知れない。うまく描けないと思っているからですね。それは凄く大事ですね。料理人も、自分が「旨い」と思った瞬間に味が悪くなるといいますから。やっぱり、初心がよみがえるというんですかね。今回の絵本もそういうかたちで作られていて、絵本は回想だし、モデルは想像だから、絵画の世界とちょっと違いますね。そういうことにも挑まれていて、これからますます制作をされると思うんですけど、今後、どんなことをしてみたいとか、計画されていることはありますか。

木下 今年の夏にパンダの絵本を描くために中国の四川省へ行って、上野動物園の「養殖パンダ」ではなくて、野生に近いパンダを取材してきたんです。実はパンダって普通のクマより獰猛なんですね。あの白黒の姿は、人間から見ると「かわいい」となるけれども、他の動物には恐怖の対象なんです。先日、生命学者の中村桂子さんと対談したら、今、人間は地球の許容量の倍の人口があるそうなんですね。だからいろんな問題が起きている。だから、パンダを絶滅危惧種というけれども、本当は人間が絶滅危惧種なんだと。人間なんていつ滅んでもいいような生きものだけど、パンダをかわいいと思うのは、大自然がパンダを通して人間にまだ滅ぶなと言っているんではないかと、そんなことを考えているんですね。
来年の8月に原稿をあげて、中国の出版社から絵本を出します。世界のブックフェアに出して、いろんな国で翻訳される予定です。
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