2013/9/18

【筑豊出張2日目】炭鉱展作品返却その2  調査・旅行・出張

今日はお風呂好きのMさんのリクエストで、朝から温泉。
Eさんのご案内で、飯塚駅前の忠隈炭鉱のボタ山にほど近い筑豊の湯へ行きました。

朝食の後は、田川市にある、山本作兵衛のお孫さんのIさんが経営されている自動車会社2階の作兵衛事務所へ。上野朱さんもわざわざおいで下さり、山本作兵衛の炭坑画60点の返却です。一点一点の作品を、元々入っていた額に収める作業。さらに、御親戚の方に作品を返却し、御礼のご挨拶もしてきました。

お昼御飯は、炭鉱の最盛期に長屋で店をスタートさせたという由緒あるホルモン焼きのお店「朝日屋」へ。
今回の「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展では、Iさん、Eさん、上野朱さんには本当にお世話になりました。そのことにありがたさを痛感しながら、今展の作品返却はすべて終了。

その後、5月の集荷を手伝って下さった筑豊における現代美術の中心人物Bさんの怪我のお見舞いに市立病院へ。病院の面会室からは、香春岳(かわらだけ)が真正面に見えました。

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筑豊は「黒ダイヤ(石炭)と白ダイヤ(石灰)」で栄えたそうですが、香春岳の一ノ岳は、質の良い石灰岩を採掘したために山が半分の高さで真二つになっているのです。

一旦、飯塚のEさんの家に戻った後に向かったのは、飯塚霊園に建つ「無窮花(ムグンファ)堂」。Eさんが前回の筑豊出張の際に「どうしても見せたい」と仰っていたもので、植民地時代に炭鉱などで強制連行されて亡くなった朝鮮の方々の遺骨を安置するために2000年12月に建てられた御堂です。

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無窮花とは、ムクゲの朝鮮半島における呼称。
小さな枝からでも根を下ろし、初夏から秋にかけて毎朝花を咲き変わらせながら咲き続けるというたくましさを、朝鮮の方々は植民地として支配されていた時代に、自らの魂の象徴としたのだそうです。

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歴史回廊と名づけられた周囲の壁面には、視点を反転させた東アジアの地図(通常の北を上にした地図ではないので、日本列島が大陸の一部であり、ひとつのつながりになっているという位置関係がよく見える)や、植民地支配と過酷な強制労働の歴史などが写真入りのタイルで紹介されています。

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「こうした御堂が建つまでに、55年もかかってしまったんだね」とMさん。
筑豊をまわっていると、朝鮮の方々との関係の深さ、そしてその慰霊や鎮魂の碑があちこちにあるということに気づきます。炭鉱と強制労働の歴史は、本当に、切り離せない関係にあるのです。

夕方には、本日二度目の温泉として、所田温泉に行ってきました。この温泉は、かつて貝島炭鉱保険組合が運営していた保養所だったという施設で、現在は宮若市の社会福祉センターとなっています。値段も安く、地元の人たちが利用する地味な温泉なのですが、風呂の風情が山本作兵衛の絵に登場する坑夫たちの浴場を思い起こさせる(「残念なのは混浴でないこと」とはMさんの談)、好感の持てる温泉でした。

その帰り途にはEさんのご案内で、貝島炭鉱の跡地をまわってきました。
貝島炭鉱は、麻生、安川とならぶ筑豊御三家の貝島財閥の創始者で「筑豊の炭坑王」の異名をとった貝島太助が開きました。
1885年に開坑し、1976年に閉山するまで大規模な露天掘りをしていた大之浦炭坑の跡地は、現在は大きな貯め池になっています。

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また、広大な跡地の一部には、大和ハウスが巨大な太陽光発電施設を建設していました。総事業費は65億円とのこと。炭坑跡地にメガソーラー。ずらりとパネルが並んだ異空間的な光景を見ながら、炭鉱と違って原発に文化は生まれなかったけれど、メガソーラーからも面白い文化は生まれることはなさそうだな……と思いました。

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その近くには、貝島太助が設立し貝島私学と呼ばれた旧私立大之浦小学校を利用した宮若市石炭記念館もあります。残念ながら私たちが訪れた際には開館時間を過ぎてしまっていたのですが、館内は小学校の教室をそのまま展示室として生かし、山近剛太郎の油彩画なども展示されているようでした。

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石炭記念館の周辺には、かつての炭住の跡であることが偲ばれる集合住宅が整然と並んでいます。少し先の区画には、「大之浦中学校跡」の巨石碑もありました。

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この中学校も“貝島私学”かと思いましたが、調べてみると公立(当時の宮田町立)だったようです。
石碑の裏側には校歌も刻まれていました。今回の「炭坑展」のトークで、コールマイン研究室のKさんが産炭地の学校の校歌に注目されていたことを思い出し、以下にその歌詞を書き出します。

南によろう笠置山
北にそびゆる六ヶ岳
青雲匂うまほらまの
つゝじが丘によりつどい
自立独往の精神に
おのれ鍛えん
あゝわが浦中


その後、炭坑跡を整備した「2000年公園」を通って石炭記念館の裏手にまわると、先ほどは気がつかなかったのですが、校庭の奥に1940年1月21日に建立されたと刻まれている「殉職者慰霊碑」が建っていました。

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貝島大之浦炭坑では、1939年1月21日のガス炭塵爆発事故で92人が亡くなっているので、その一周忌の際に建立された慰霊碑のようです。もちろん、もともと小学校に建っていたのではなくて、別の場所から移してきたようです。

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炭住地区の一角では「貝島炭鉱創業之地」と刻まれた石碑も見つけました。
貝島炭鉱の重役であった山近剛太郎の作品調査の過程でも感じたことですが、貝島炭鉱は筑豊の大手炭鉱のなかでは良心的であったというか(もちろん、朝鮮の方々を労働させてはいるのですが)、関係者が誇りと愛着を持って語る会社であったということが、跡地をめぐっていても感じられます。
Mさんは「貝島は大会社なのに“一山一家”的な雰囲気の会社なんだね」と感心していました。

Eさんの家に帰宅し、夕食を頂いた後、韓国版の筑豊炭鉱遺跡ガイドブックを見せて頂きました。ハングルなので読めませんが、そのガイドブックに掲載されている施設は、今回の「炭坑展」の集荷・返却の際に、私たちがEさんに連れられて歩いた場所とかなり重なっていました。
おそらくは、日本の型通りのガイドブックでは知ることができない内容。実際に現地へ足を運んで、炭坑に深い思いを寄せている方々に案内されて、それで初めて知ることができる内容です。
「これはいい内容のガイドブックだ」とMさんも絶賛。
山本作兵衛の記録画や廃墟ブームを機に、日本でも炭鉱への関心が高まっているとは思いますが、それでも、「このガイドブックの日本語版が欲しい」と私たちが思うように、表層的なブームではなく、炭鉱の意味を考える深まった視点の筑豊ガイドはまだ作られていません。そのあたりに、日本の炭鉱文化の視点をめぐる問題点が潜んでいるような気もします。

このガイドブックで知った施設に、小竹町で個人が運営されているという「兵士・庶民の戦争資料館」という小さな(しかし、興味深い)施設がありました。
もう少し早く知っていたら、Eさんにも案内して頂いたのですが、今回は時間がないので断念しました。次に筑豊を訪れたときのために、とっておくのも良いのかもしれません。
Eさんのお連れ合いのTさんからは、「ここをいつでも泊まれる場所と思って、また筑豊に遊びに来て下さい」と嬉しい言葉を頂きました。
今回もまた、充実した筑豊出張となりました。
Eさんはじめ、お世話になりました皆さまには、心から御礼を申し上げます。
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2015/5/15  10:41

投稿者:okamura

ご教示ありがとうございました。
修正させていただきました。

2015/5/13  10:35

投稿者:Haruhisa Chijiiwa

大之浦中学校の校歌の一部が間違いです。
八ヶ岳ではなく六ヶ岳 です。


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