2013/8/26

原爆の図《からす》と在韓被爆者支援運動  調査・旅行・出張

休館日でしたが、夕方から新宿の喫茶店にて、近現代史研究者の小沢節子さんとともに、元朝日新聞編集委員で早稲田大学アジア研究機構日韓未来構築フォーラムを主宰されている小田川興さんの聞き取り調査を行いました。

小田川さんは1972年に丸木夫妻が原爆の図第14部《からす》を制作した際、新聞記者として取材され、また、在韓被爆者支援運動にも長年深く関わってこられた方です。
今年5月には、《からす》に描かれた人物の一人のモデルを務めた辛泳洙(シン・ヨンス)さんの御子息である駐広島大韓民国総領事館の辛亨根(シン・ヒョングン)総領事を丸木美術館に案内して下さいました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2142.html

クリックすると元のサイズで表示します

原爆の図第14部《からす》については、その発表とほぼ同時期に刊行された『幽霊 原爆の図世界巡礼』(丸木俊著、朝日新聞社、1972年7月15日発行)に詳しい記述があります。

==========

 朝鮮人は、強制的に日本へ連れてこられて、戦争に使う鉄や大砲、船などをつくる工場へ入れられて働かされていたのです。お前も日本人だ、よく働くように、と命令されていたということです。けれど、この集団はしっかりと監視されていたのです。
 そうした工場が日本のあちこちにあり、ひろしま、長崎にもあったわけです。
 こうした朝鮮人たちが、日本人と一緒にアメリカの落した原子爆弾の犠牲となったのです。
 いま、韓国だけでも一万五千人の被爆者が被爆手帳ももらわず、なんの特別の手当もなく放置されているということです。
 長崎で傷ついた朝鮮人被爆者は、救護班のところへ列をつくって並んだということです。八月九日、まだ日本軍は降伏しておらず、軍隊の救護班がテントを張ったのです。
 すると、朝鮮人は日本人ではない、治療をうける資格はない、と治療を断られたというのです。昨日までは日本人、今日からは朝鮮人。
 そうして、救護班のテントの上に日の丸の旗を立てたのだそうです。
 朝鮮人は日の丸のもとへは近づくことができなかったのです。
 治るべき被爆者も、みすみす息を引きとっていったということです。
 日本人の顔と朝鮮人の顔とは、そっくりではありませんか。まるで兄弟か親戚のような表情です。どこで朝鮮人、ということを表現したらよいでしょう。日本人ということになっていたのですし、戦争中でもありますから女たちでもチョゴリは着ていなかったのでありましょう。
 どう描いたらいいものかと、会う人ごとになげいていましたら、お友だちが『朝日ジャーナル』に出た石牟礼道子さんの「菊とナガサキ」という文章のことを知らせてくださいました。
 恐ろしい迫力をもった文章でした。素朴なリアリティが人の心にせまるのだと思いました。
 どう描こう、どのように、思っていたわたしの混迷は、石牟礼さんの文章で、方向がきまったのです。


(中略)

 朝鮮人が屍にまで差別をされ、烏についばまれていた、そのことを描かねばなりません。そんな絵を描いたからといって、今までの罪がゆるされるとは思いません。けれど描かねばなりません。
 わたしは双眼鏡を買って、川原に降りてくる烏を眺めはじめました。旅から帰った位里も、これには気のりがしたらしく、烏を眺めはじめました。
 制作の話を伝えますと、友人たちも共感してくれて、朝鮮人問題を教えにきてくれます。
 また、韓国からは被爆者の人がわざわざ来てくださったりします。
 また、朝鮮人被爆者の映画を作った方があるから見せていただくように、と、安井郁館長先生がおっしゃって、その人とわざわざ見せに来てくださいました。
 その映画の題は、
 『イエノム』
 イエノムとは、ひそかに、日本人のいないところでしか口にしない“日本人”という言葉なのだそうです。
 それは屈辱と圧迫の影でひそかにののしる小さな、しかしはげしい抵抗の言葉なのです。
 ほんの数少ない言葉のなかに、実は恐ろしく深い怨みがこめられているのです。
 お前は日本人、御国のために働けよ、と連れてこられて、原爆にあい、その日からもう日本人ではないぞと宣言され、治療もできず帰国してみると、
「朝鮮の言葉を忘れた朝鮮人」
 とののしられる。朝鮮の生活も日本とおとらず過酷なものであったのです。
 日本では原爆手帳ももらえず、韓国ではなおさら、被爆対策は何ひとつないわけです。
 体は弱く、働くこともできず、死を待つばかり、という被爆者がたくさんいるわけです。
「これもみなイエノムのおかげよ」
 そのように話しては嘆くのです。


==========

今回の聞き取り調査の目的は、文中にも「韓国からは被爆者の人がわざわざ来てくださった」と記されている辛泳洙さんら当時の在韓被爆者の状況を教えて頂くことでした。
もっとも、私は在韓被爆者問題についてはまったく勉強不足なので、聞き取りは小沢さんが中心になって行われました。
小沢さんの疑問は、丸木夫妻が韓国人被爆者のモデルの存在について詳しく触れずに、石牟礼さんの文章との出会いを強調しながら《からす》誕生の“物語”を形成していったのは、意図的なことだったのではないか、ということでした。

というのも、当時は東西冷戦のまっただなか。韓国人被爆者が日本で、すでに共産党を除名されていたとはいえ朝鮮総連とも関わりのあった丸木夫妻と接触することは、ひとつ間違えれば重罪に問われかねない危険をともなう行為だったからです。
実際、辛泳洙さんは、《からす》のモデルを務めたことを家族にも話しておらず、息子の辛亨根さんはまったく知らなかったそうです。
小田川さんも、それは丸木夫妻の辛泳洙さんに対する“配慮”だったのでしょう、とおっしゃっていました。

お話を伺ううち、韓国人被爆者支援を訴えるために当時たびたび来日していた辛泳洙さんと丸木夫妻、あるいは石牟礼道子さんをつなぐ存在として、「原爆文献を読む会」の活動をされていた長岡弘芳さんや中島竜美さん(在韓被爆者問題市民会議初代代表)の名前が挙がってきました。
こうしたつながりについては、今後もう少し詳しく調べていかなければいけませんが、70年代はじめの在韓被爆者支援運動の大きな流れのなかで、丸木夫妻の《からす》が生まれてきたことをあらためて考えさせられる、とても貴重な機会となりました。

なお、俊さんの回想に登場する「朝鮮人被爆者の映画」は、正確には『倭奴(イエノム)へ 在韓被爆者 無告の二十六年』(「倭奴」制作推進委員会、NDU日本ドキュメンタリストユニオン、1971年、53分)という作品。
《からす》が描かれたのが1972年夏なので、時期的にも完全に一致します。
NDUは、記録映画監督の布川徹郎(1942-2012)を中心として、70年代の日本のドキュメンタリーを牽引した早大中退者による映画創作集団とのこと。『倭奴』は、布川監督の代表作とも言える評価の高い作品のようです。
俊さんの回想を読むと、どうやら布川監督も安井郁初代丸木美術館館長に連れられて、丸木夫妻のもとを訪れていたと思われます。
残念ながらこの映画も未見ですので、いずれ機会があれば調査していきたいところです。
4




※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ