2013/5/16

【筑豊出張2日目】直方・田川・飯塚炭鉱画巡り  調査・旅行・出張

筑豊出張2日目は、昨日に引き続き、山本作兵衛の御孫Eさん、元学芸員Mさんとともに、朝一番に直方市石炭記念館へ。
ここで写真家の萩原義弘さん、直方市谷尾美術館のN学芸員と合流しました。

直方市は、明治のはじめから約100年間に8億トンの石炭を産出した筑豊炭田の中心地。
筑豊地区で採れた石炭は、直方駅に集められてから、汽車で輸送されていったのです。
線路を見下ろす立地に建てられた石炭記念館の前には、貝島炭鉱の大之浦炭坑で資材運搬用としてドイツから輸入した炭鉱専用の機関車コッぺル32号が保存展示されています。

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石炭記念館の本館は、筑豊石炭鉱業組合の直方会議所として1910年8月に建てられた貴重な建物で、直方市の有形文化財に指定されています。

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1885年に設立された筑豊石炭鉱業組合は、石炭産業最初の組合団体。
木造2階建、瓦葺きの洋風建築である直方会議所は、さまざまな会議に使用され、貝島太助、麻生太吉など当時の炭鉱経営者がここで激論を交わしたそうです。
1922年4月にはこの場所に同組合の救護練習所を設けられ、救護隊員養成と救命器使用訓練が組織的に行われました。
その後、戦時下に石炭統制会、九州石炭鉱業協会などの所属になり、1952年には九州炭鉱救護隊連盟が設立され、同連盟の直方練習所となりました。
この間、基礎訓練終了者数は作業隊員9,682名、整備員480名に及んだそうです。
しかし、1969年に九州鉱山保安センターが開設されたことによりその役割を終え、直方市に寄贈されて石炭記念館となったというわけです。

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庭には他にも、鉱夫の像などが建っています。

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石炭をかたどったモニュメントには、坑内作業の様子を表現したレリーフもありました。

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まずは本館2階の展示室に上がり、かつて日鉄二瀬鉱業所本館の玄関正面に掲げられていたという柏原覚太郎の油彩画《やまの戦士》や、北島浅一作の女坑夫を描いた炭鉱坑道風景の油彩画などを萩原さんが撮影しました。
これらの作品は、丸木美術館で開催する炭鉱展には出品されませんが、展覧会開催に合わせて刊行される平凡社のコロナブックスに写真を紹介する予定になっているのです。

この資料館は、石炭に関わる実物の資料とともに、絵画の紹介にも力を入れています。
別館の2階には、山本作兵衛の炭鉱画がひとつのコーナーとして展示されていました。

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また、山本作兵衛より早い時期に「明治時代の炭鉱風俗」を描いていた井上為次郎の炭鉱画も、複製ですが展示されていました。丸木美術館の企画展では、ご遺族のご厚意により、オリジナルの作品を全点展示できることになりました。

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そして、今回の私たちの目的は、貝島炭磧の重役をつとめた山近剛太郎のペン画。
山近の作品も充実した展示となっています。

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石炭記念館のN館長は、かつて丸木美術館にボランティアとして通っていた時期もあるそうで(!)、展覧会にも快くご協力頂き、原田大鳳の炭鉱絵巻と、山近作品の中から坑内馬を描いた貴重な小品をお借りすることができました。

   *   *   *

次に訪れたのは、直方市中央図書館。
この図書館の郷土資料室には、“大正の広重”と言われた鳥瞰図絵師・吉田初三郎の筆による、《直方市鳥瞰図》(1960年作)が所蔵されています。

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炭都・筑豊の中心地として栄えた直方市の町並みを描いた作品。

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直方駅周辺のにぎわいも詳細に描かれていました。
こちらも、お借りすることができないので、コロナブックス用の撮影のみ。

さらに、今回の調査でたいへんお世話になったN学芸員の所属先である直方市谷尾美術館も訪れました。

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現在、この美術館では、N学芸員の企画による「なぜ、絵を描くのですか?」という山本作兵衛、野見山暁治ら18名の作家による興味深い展覧会(前・後期制)を開催中。もっとも、残念ながら山本作兵衛は前期展示ということで、すでに展示替えになってしまった後でした。

   *   *   *

N学芸員とここでお別れし、田川市に移動して昼食は料亭あをぎりへ。
初代田川市長・林田春次郎の邸宅であったという立派な和風建築です。

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ここでは、かつての筑豊の郷土料理であるクジラの肉を使った唐揚げの定食を頂きました。

午後は田川市石炭・歴史博物館へ。

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筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地に、1983年に前身の田川市石炭資料館として開館した施設です。

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ここでは、現在、田川市石炭・歴史博物館開館30周年記念・世界記憶遺産登録原画特別公開として、「山本作兵衛墨画展―炭坑記録画の源流―」という特別展示が行われています(5月26日まで)。

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作兵衛の炭鉱画の原点とも言うべき墨画を中心とした見応えのある展覧会です。
墨画は初期作品なのですが、彩色画と比較しても、動きが躍動感にあふれています。
昨日の借用調査で、作兵衛の絵は武者絵から出発しているのかなと感じていましたが、墨画の作品群に描かれた人物の表情はまさに武者のように表情も引きしまっていました。

   *   *   *

続いて、今度は飯塚市歴史資料館へ移動。展示替えのため休館日でしたが、私たちのためにわざわざ開けて下さり、ここでも山本作兵衛の炭鉱画の展示を見せて頂きました。
“世界記憶遺産”に登録されたのは田川市所蔵の資料ですが、それだけではなく、実は筑豊地区の各地に作兵衛の炭鉱画が点在している、ということを、今回の出張で初めて知りました。
もちろん、“世界記憶遺産”の炭鉱画と、その他の場所で保存されている作品とのあいだに、本質的には差異はありません。
それでも、人はつい“世界記憶遺産”かそうでないか、という視点で作品を見てしまう。
“世界記憶遺産”という権威のおかげで、山本作兵衛という名は一般の人びとのあいだに広く認知されたのは確かですが、そのために見えなくなってしまうものもあるのではないかということも、同時に気になるところです。

この資料館では、吉田初三郎の絵巻物も見せて頂きました。今度は飯塚市の鳥瞰図です。
写真の画面中央に、忠隈鉱業所や飯塚鉱業所の煙突やボタ山が描かれています。

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次に訪れた旧伊藤伝右衛門邸にも、蔵の展示室に作兵衛の炭鉱画が飾られていました。
この蔵の内部を利用した展示室は、今回見せて頂いた作兵衛の展示のなかで一番雰囲気があり、とても良い展示でした。作兵衛の故郷の飯塚市が、いかに彼の炭鉱画を愛し、大切にしているかを、垣間見たような気がしました。

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写真は、“炭鉱王”伊藤伝右衛門に嫁いできた柳原白蓮の部屋から見下ろした庭園の風景。
もともとこの日本建築の粋を集めた大邸宅は、白蓮のために建てられたそうです。この二人をめぐる物語も非常に興味深いものでしたが、書いていくときりがないので、今回は省略。

さらにEさんの案内で、丸木美術館もお世話になっている東京藝術大学のS先生の従兄弟Oさんが経営している喫茶店へ行き、珈琲を飲みました。

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   *   *   *

そして、この日最後に訪れたのは、原口炭鉱大門(おおかど)坑跡。
2010年夏に雑木林の中から“発見”されたという貴重な炭鉱遺跡です。

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1896年頃に江口倉之助によって開坑された際には宮ノ浦炭鉱と呼ばれ、大正期に一度麻生に売山されたようですが、1948年に木曾重義が再開。
田中角栄も関与した石炭国管疑獄事件の舞台にもなりました。
その後、何度か経営者が変わり、1957年から原口鉱業の所有となり、1963年に閉山しました。
そのまま埋もれていた炭鉱跡を、土地を買い取り、一人で掘り起こして整備したというのが、今回、私たちを案内するために先回りして待って下さっていたAさんでした。

その“仕事”のスケールの大きさ、そして飾らない気さくな人柄……筑豊の地を腕一本で生きてきた人らしい豪放さと優しさを併せ持つようなAさんに、私たち一行も感心しきり。

中小規模の炭鉱ではありますが、そのほぼ全容を今もそのまま見ることができるというのは、全国の炭鉱跡を撮り続けている写真家の萩原さんも「他に例がない」と絶賛するほど。

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私も、炭鉱の跡地に立ったという感覚を、初めて肌身で味わった気がしました。
中でも珍しいのは、主坑道と副坑道のふたつの坑道の坑口が、そのままの状態で残されているという点です。

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こちらが主坑道(本卸)。坑夫たちの入坑や採掘した石炭の運び出しはここから行われました。
幅は約3.25m、高さは2.4mの坑口です。奥は12mほどコンクリートの坑道が続いています。

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そしてこちらが副坑道(連卸)。坑内に新鮮な空気を送り込むために使われた坑道です。
幅3.3m、高さ2.45mで主坑道と同じように約12mほどコンクリートの坑道が続き、その奥は素掘りの坑道が続いていたそうです。

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副坑道には、地面から垂直に空いた大きな竪坑があり、おそらく吸排気に関わるものだろうということです。

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そして、主坑道の延長線上には、20度という急傾斜の主坑道から石炭や人を積んだトロッコを巻きあげるための、太いコンクリート柱6本で支えられた堅牢な捲揚機の台座が残されていました。Aさんは、この捲揚機台座からの位置関係を推測して、土中に埋もれていたふたつの坑口を掘り当てたのだそうです。
この立派な遺構には、百戦錬磨の萩原さんも興奮気味にシャッターを切っていました。

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閉山が近い時期に形成されたと思われるボタ山(採掘した石炭に含まれる不純物などを選別し集積した山)も、Aさんが木を切って当時の姿に近づけたもの。
こうして見ると小さな山のように見えますが、もちろん、その大部分はいまだ土中に埋もれていて、本来の姿はもっと壮大なものだったことでしょう。
映画に出てくるボタ拾いの子どもたちのような気分になって、ボタ山の頂にも上りました。

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山の上から見下ろす景色はとても見晴らしがよく、気持ちのよいものでした。
ボタ山が子どもたちの遊び場になっていたというのも、よくわかります。
写真の下の方に小さく映っているのは、途中まで上ったものの、急傾斜に危険を感じて山頂に上がるのを断念し、引き返しているMさんです。ごめんなさい、写真を載せてしまいました。

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この他にも、水洗機や貯炭場、選炭機、沈殿槽などの跡も、非常に良い状態で残っていました。
別に金のためにやったわけではない、人生には遊びが必要、と笑顔で語るAさんの言葉の余韻に浸りながら、夕闇の迫る炭鉱跡を後にしました。
私たちに「あれも見せたい、これも見せたい」と熱い思いで一日じゅうたっぷりと案内をして下さったEさんに、心から感謝の一日でした。
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