2013/5/9

大塔書店版『丸木スマ画集』内容見本  作品・資料

先月、福島で開催された原爆文学研究会の折に、福岡県のSさんから「火野葦平の旧蔵書のなかに、大塔書店版『丸木スマ画集』の内容見本があった」とご教示を頂きました。

火野葦平が1954年11月に大塔書店から発行されたスマ画集の推薦文を書いていたということは、2010年7月30日の福岡出張でわかっていたのですが、肝心の推薦文が掲載されているという「内容見本」が、丸木美術館には残されていなかったのです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html

本日、そのSさんから、貴重な「内容見本」の現物が送られてきました。
B5版中綴じ8頁の冊子を、早速、スキャナでPCに取り込みました。

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表紙には次の文章が掲載されています。

畑仕事や養蚕や手内職に、八十年の歳月を送ったお婆さんが、ふとした機縁から絵筆をとり、その生活の経験と実感を、絢爛たる絵心に託し、驚嘆すべき美の世界を創造した……純朴な詩情、誇らかな色彩、土の香りに満ちた画面からは、動物達の話声さえ聞えてくる。これは正に、完全に解放された人間の仕事であり、現代文化の中に、奇蹟のように咲いた原始の花である。

頁をめくると、《きのこ》、《餌》、《庭先》の3点のモノクロ画像が掲載され、安田靭彦(芸術院会員)、太田聴雨(日本美術院同人)、森田元子(女流画家協会)、中谷ミユキ(女流画家協会)、火野葦平(作家)、野田宇太郎(詩人)、末川博(立命館大学総長)という7人の方々の推薦文がならんでいます(安田靭彦の文章は画集序文からの抜粋)。

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かつて位里と研究会を行っていたこともある太田聴雨が、《柿もぎ》に描かれた「大きな柿の実の間からのぞいている小さな子供らの顔がちょうど中宮寺曼荼羅の刺繍下絵にみるそれと共通したものを思わせ、古代人のナイーブな感覚にふれたようでたのしかった」と記していたり、丸木家と同郷の中谷ミユキが「丸木のおばあちゃんは、その頃はまだ若くて頭のいいおばさんだと思っていました。きりきりと働き、はきはきと物を言う、まめまめしいお百姓さんでした。八十才を越えて絵でも描こうというのだから、字は読めなくても、絵は描かなくても、人並みとは一寸違ったものが、その頃からあったのかも知れません」と回想していたり、いろいろと興味深い部分があります。
なかでも、火野葦平がスマについて記した文章は、これまでほとんど知られていないと思いますので、以下に抜き出して紹介します。

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 丸木スマさんの絵をはじめて見たときのおどろきをどう表現したらいいのだろうか。私も絵は好きだし、ずいぶん多くの画家の多くの絵を見て来たが、この八十三才の老画家の絵の感銘は、これまで嘗て感じたことのない異種のものであった。一見して、私は、アンリ・ルソオと、マルク・シャガールと、特異児童清さんの貼り絵とを思いだした。また、その或るものはシュールやアブストラクトのにおいさえする。けれども、眼に一丁字がなく、広島の田舎で百姓仕事をしていたスマさんが、突如、八十才から描きはじめたという絵は、いかなる伝統のうえにも立っていない。唐突に眼ざめた絵画への情熱がこれまでまったく隠れていた天賦の才質を呼びさましたのだ。理論も持たず、主張も傾向も一切そういう種類の雑念に煩わされることなしに描くスマさんの絵は、絵をかくことが楽しくて仕方がない、というあの野放図な情熱によって、完璧な天衣無縫さをさらわしている。
 けれども、その絵は破格の自由さのなかに、多くの天才たちが天から与えられたすぐれた稟質、色彩とコンポジションとの無類の調和を示していて、私の眼をみはらせるのである。長い修練の時を経てさえ容易にたどりつけぬ境地を、一挙に表現するこのお婆さん絵かき、稚拙を近代芸術の高さにおいたルソオの美しさとともに、私はなお今後のスマさんの画業を楽しみにしている。


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「内容見本」は、続いて原色版見本として、《きのこ》、《巣》の図版を掲載しています。

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さらに頁をめくると、《にわとり》、《柿もぎ》、《撃たれた鵜》、《母猫》の四点の画像とともに、金島桂華(日展参事)、北川桃雄(美術評論家)、中谷泰(春陽会会員)、仲田好江(女流画家協会)、水沢澄夫(美術評論家)の5人の方々の推薦文が掲載されています。

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その年の正月にスマのもとを訪れ、対談を行った(『中国新聞』1954年1月13日掲載)金島桂華の文章が、その様子を詳しく伝えていて興味を惹きます。

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白いエプロンをして居られて、普通の田舎のおばあちゃんだった。この人のどこからあのようなものが産れるのかと、つくづく顔を見た。小さな机の上に、五六本の筆と四五枚の絵具皿とポスターカラーと小さな筆洗があって、筆洗の水は絵具で濁っていた。襖に三四枚のかきかけのような絵がピンで張ってあった。「これはかきかけですか」と聞いたら、「出来上ってるんです」と云って平気な顔をしていられた。どれも面白いものだった。「私の絵はいいのではない、面白いと云う事は永く続くまい。面白いと云う事は倦きて来るから、その内落されるでしょう」といってすましていられた。私は只のお婆さんではないと思った。

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最後の頁は、《蝶》の画像と丸木位里・赤松俊子連名の文章です。

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二人の連名になっていますが、俊が記した文章でしょう。

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『デッサンというものは何か』
 と、だしぬけに母が聞きます。どうしたのかと思ったら、小学校の絵の先生がおばあちゃんにデッサンを教えて下さい、といって来た、というのです。
『デッサンというのは、絵を描く前、初歩の勉強、又は下描きのようなことを言うのです』
 と、いいますと、
『そうかい』
 と、母はわかったようなわからないような返事をしました。
 五十年も六十年も、三代のしゅうと、姑につかえ、畑を耕し、稲を植え、山へ行って木を切り、父を助け、子供を育てて来た母には、これ以上のデッサンがありましょうか。
 この苦難な母の一生。女の一生。
 筆で線を引き、色をつける。こんな楽なことがどこにあろうか。
 絵を描き初めた母は、まずこう考えたにちがいありません。何の苦もなく、どんどん絵は生れ、はじめの一年間のすばらしい速度は驚くばかりでありました。


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文面からは、俊の女性としての視線や、当時彼女が提唱していた「絵はだれでもかける」という“国民芸術論”が垣間見られます(俊の“国民芸術論”については、『原爆文学研究』第8号の小沢節子さんの論考「丸木スマと大道あやの『絵画世界』」参照)。
http://www.genbunken.net/kenkyu/08pdf/kozawa.pdf

この画集の発行と同時期(1954年11月)に、俊は新書版『絵はだれでもかける』を室町書房より刊行しています。そうした点からも、スマの絵画が俊の“国民芸術論”のひとつの体現として位置づけられていたということが感じられます。
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