2013/3/30

【パラオ旅行2日目】ペリリュー島戦跡巡り  調査・旅行・出張

パラオ2日目は朝から、日本で予約をしていたペリリュー島戦跡巡りツアーへ。
ペリリュー島はコロール島の南西約40kmにある、島民約600人、面積約13kmの小さな島です。
この島は、太平洋戦争末期の1944年9月15日から11月25日にかけて、米軍と日本軍守備隊のあいだで激戦が行われたことで知られています。

前日にパラオ国立博物館で戦争体験者の証言を読み、沖縄戦を思い起こしました。
沖縄の戦跡巡りは、2008年11月に行っています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1091.html?rev=1
このとき沖縄を訪れたのは、「美術家たちの『南洋群島』展」での講演が主目的でした。
今回はその「南洋群島」版の戦跡巡りとなります。

ホテルに迎えに来てくれたバスに乗って、ミナトバシを渡りマラカル島へ。
パラオ・ロイヤル・リゾートの桟橋からスピードボートに乗って、珊瑚礁の海に出発します。

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穏やかな波の上を、文字通り飛ぶように走るスピードボートの勢いに、われわれ一行はびっくり。
想像以上の風の強さに圧倒されて、全員ただ笑うしかない、といった状況です。

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昨年世界遺産に登録されたというロックアイランドの島々も船の上から眺めました。
パラオには300を超える島があるそうですが、そのうち人の住む島はわずかに9つ。ほとんどが無人島なのです。船から見ても、上陸できそうな浜のある島は、ひとつもありません。

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1時間ほどでペリリュー島のノースドック(北波止場)に到着。
ここからは車に乗り換えて、ペリリュー島ツアーがはじまります。
案内をして下さったのは、若いツアーガイドのDさんと、ベテラン運転手のNさん。
運転手のNさんは、わが家の4歳の娘Mとなぜかお互いに気があったようで、途中からMに誘われて車を降りてツアーに参加したりもしていました。

   *   *   *

この日案内された場所を、以下に順番に書き出していきます。

トーチカ
ノースドックを出発してすぐに、道路沿いにコンクリート製のトーチカ(ロシア語で、攻撃側の射撃から火器を守る構造物)がありました。

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島の北側から米軍が上陸してくるのを警戒して作られた日本軍のトーチカですが、米軍は島南西部のオレンジ・ビーチから上陸してきたので、実戦では使われなかったようです。


千人洞窟
ペリリュー島最大の洞窟陣地で、南北96m、東西36mにわたって迷路のように広がっています。

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内部が暗いのでペンライトを持って入っていくのは沖縄のガマを連想させますが、ガマよりずっと足もとが平らで歩きやすかったです。

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洞窟内には、火焔瓶として使われたという硝子瓶や鉄兜がたくさん転がっていました。
病室として使われていたスペースもあり、部隊が洞窟を離れるとき、移動ができずに残された負傷兵が死を強いられたという点は、沖縄にも重なります。

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洞窟の出口には、米軍が火炎放射を行った際に黒く変色した焦げ跡もありました。
この焦げ跡も沖縄のガマと重なります。


トーチカ
千人洞窟の南部にも、地中にもぐり込むようなトーチカがありました。

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日本統治時代、ここには南洋興発株式会社の燐鉱石精錬所があり、このトーチカは精錬所の土台を利用して作られた急造のものだったようです。


戦没者慰霊碑
島の共同墓地の一角にある数々の戦没者慰霊碑。

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そのなかには、「沖縄の塔」と記された石碑がありました。

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「南洋群島」には沖縄から渡航した人びとも数多く暮らしていて、現地召集された沖縄県人も多数戦死しています。


ペリリュー第二次世界大戦記念博物館(旧日本軍通信局)
米軍攻撃の弾痕が残る外壁をそのままに補修し、内部は戦争博物館になっています。

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展示解説は基本的に英文で、米国側の視点から見た戦争の展示です。
残念ながら、われわれは見逃してしまったのですが、博物館の隣には、広島の相生橋付近で使われていた市内電車の被爆敷石がはめ込まれた平和記念碑も建てられていたようです。


海軍司令部跡
密林のなかに突如あらわれた廃墟は、海軍司令部跡。

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米軍の攻撃により、屋根には大きな穴があき、壁には銃痕が残っています。

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しかし、密度の濃い鉄筋コンクリートの2階建の建物は、頑強にその姿をとどめています。

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1階には風呂や便所の跡も残っています。

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建物のすぐ隣の草むらの中には防空壕も残っていました。

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九五式軽戦車
密林の道をさらに進むと、すっかり錆びついた旧日本軍の軽戦車が遺されていました。

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ガイドのDさんによれば、米軍の戦車よりもかなり小さく、装甲も薄いので銃弾が簡単に貫通してしまったとのことです。


ペリリュー飛行場滑走路
日米戦当時ペリリュー島には南洋群島最大の十字滑走路があり、そのためにこの島は戦略上重要な拠点として激しい戦闘が行われたそうです。

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現在は、北東から南西へ伸びる一本の滑走路だけが残っていますが、ふだんは使用されず、緊急用の滑走路となっているようです。


オレンジ・ビーチ
1944年9月15日にはじまった米軍最初の上陸地点です。

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日本軍の一斉射撃により海は米兵の真っ赤な血で染まったそうです。
もっとも、Dさんのガイドによれば、それまでのサイパン、テニアン、グアムにおける「水際作戦」(上陸してくる敵を迎え撃つ作戦)は、ことごとく圧倒的な兵力の差によって短時間の「玉砕」に終わっており、ペリリュー島では一旦撤退して島のなかの密林での持久戦に持ち込みました。この結果、米軍が3日で終わらせると考えていた戦闘は、11月24日まで3カ月に及んだそうです。

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こうした作戦の「成果」により、その後に行われた硫黄島や沖縄の戦闘は、ペリリュー島の戦法を踏襲したのです。もちろん、それは補給路の断たれた中での、勝ち目のない持久戦だったわけですが。そしてペリリュー島では事前に住民を他の島に避難させていたものの、沖縄戦では住民を巻き込んだ悲惨極まりない地上戦へと突入していったというわけです。


アンガウル島
オレンジ・ビーチの沖には、燐鉱石の採掘が盛んだったアンガウル島の影が見えました。

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アンガウル島でもペリリュー島同様、激戦が行われ、最後は「玉砕」となったそうです。
若き日の俊も、アンガウル島を訪れてスケッチなどを残しています。

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1941年に描いた《アンガウル島へ向かう》には、「パラオ島よりアンガウル島に向ふ船上」と記されています。

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1943年7月発行の絵本『ミナミノシマ』(中央出版協会)には、アンガウル島の燐鉱石採掘場の絵が描かれています。


零戦の残骸
密林のなかに墜落した、日本軍の戦闘機・零戦の残骸にも案内されました。
機体は車輪を出した状態で破壊されており、撃墜されたのではなく、地上で爆撃されたと思われます。

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草生していますが、翼の表面には、いまだに生々しく日の丸の赤い塗料が残っています。

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サウスドック(南波止場)
島の南端の岬にはペリリュー平和記念公園があるそうですが、台風の被害により道が寸断されているとのことで、サウスドック(南波止場)でお弁当を食べました。

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戦後に米軍によって整備されたそうですが、静かで海の色の美しい入江です。
食事の後は、再び密林のなかをドライブ。

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トーチカ
午後は、最初に密林の中に埋もれているような円形状のトーチカに行きました。

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規模の大きな施設で、中に入って見ることができます。天井には大きな丸い穴が開いていました。ガイドのDさんによれば、室内の熱を冷ますためではないかとのことです。

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床には錆びついた薬きょうなども転がっていました。


米軍機の残骸
米軍機の残骸にも案内されました。

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すっかり破壊されていますが、新品のように輝く金属の部品もあり、刻まれた文字が読めます。

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米軍LVT-4
米海兵隊の水陸両用兵員輸送車LVT-4も草生した状態で遺されていました。

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後部に乗降扉がついていて、30名ほどの兵士が輸送できたようです。
浅い珊瑚礁の上をこの舟艇に乗って移動し、海岸に上陸するのだそうです。

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米軍LVT-A1
さらに米軍の水陸両用戦車LVT-A1も見学。日本軍の戦車に比べて格段に大きく、装甲も厚くなっています。

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また、砲塔が360度回転するという点も、日本軍の戦車との違い。九五式軽戦車は、車体の向きを変えなければ砲撃できず、勝負にならなかったとガイドのDさん。
全体に錆びついていますが、まだ回転する歯車がひとつ残っていて、子どもたちは喜んでまわしていました。

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日本軍捕虜収容所跡
米軍戦車のすぐ近くには、日本軍捕虜収容所のフェンスの残骸も残っていました。

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現在は密林ですが、当時は飛行場を中心に、島の南部にも市街地が開けていたそうです。
公学校(日本化教育を行った学校)の門柱も、密林の中にぽつんと取り残されていました。


砲台跡
燐鉱採掘跡に鉄骨の足場を組んで据えられている砲台の跡にも行きました。

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実際はこの砲台が据えられている方角とは反対側から米軍が上陸してきたので、実戦での使用機会はあまりなかったそうです。

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ペリリュー神社
島の高台には、日本の右翼団体によってペリリュー神社が建立されています。

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そして、そのすぐ近くには米国側のモニュメントも。

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ペリリュー神社の境内には、日本軍の戦いに衝撃を受けた太平洋艦隊総司令官のチェスター・ニミッツの作として次のような石碑もあります。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz」

こうしたモニュメントを見ながら、ふと思い出したのは、詩人のアーサー・ビナードさんのエッセイ。
自身も戦争体験を持つアーサーさんの義父(同じく詩人で、丸木美術館とも縁の深い栗原克丸さんのことでしょう)が教えてくれた“戦争責任早解り法”は、「地図を広げ、どこで、だれがやっているか、それさえ見れば大体、戦争責任の所在は明らかだ」というくだりです。
その方法に則れば、ペリリューという美しい島で、遠く離れた日本と米国の軍隊が激戦を行ったことの不条理が浮かび上がります。
二つの国の愛国心が競い合うようにならぶこの地に、ペリリュー島の人びとの存在がすっかり抜け落ちているように感じるのは、どうにも居心地が悪いものです。


中川大佐自決の地
最後に、ペリリュー島の守備隊長・中川州男大佐が自決したという洞窟を目ざして、山のなかを歩いていきました。

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沖縄戦の牛島満総司令官の自決の地を訪れたときのことを思い出します。

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今回、台風で道が寸断されていたため、敗戦後も2年間抵抗を続けた34人の日本兵の隠れていた洞窟に近づくことはできませんでしたが、こうした洞窟を拠点にして長期的なゲリラ戦を展開するという方法は、本当に沖縄戦と同じで、何度も既視感に襲われました。


ノースドック(北波止場)
戦跡巡りを終えて、ノースドックから再びスピードボートに乗ってコロール島に戻りました。

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ペリリューという南の小島に、これほど戦争遺跡が遺されているということにあらためて驚きましたが、逆に今まで、「かつて“日本”とされていた地」の戦禍がいかに自分の視界に入っていなかったのかということに、気づかされました。
沖縄の先には「南洋群島」があり、ずっとつながって続いていたのですね。
「美術家たちの『南洋群島』」展の沖縄会場で、担当学芸員の豊見山愛さんが「南から南へ」という意味深い副題をつけていたことを、あらためて思い起こします。
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