2013/3/29

【パラオ旅行初日】ベラウ国立博物館と日本統治時代の建築物  調査・旅行・出張

1940年1月、27歳の赤松俊子(丸木俊)は、ゴーギャンのように南の島で絵を描き続けることを決意し、横浜港から南洋航路船・笠置丸(西廻り線)に乗って、当時の日本委任統治領だった「南洋群島」(ミクロネシアのマリアナ、カロリン、マーシャルの各諸島の総称)に向かいました。

すでに「南洋群島」に長く暮らしていた彫刻家・民族学者の土方久功の1940年1月27日の日記には、俊と初めて出会った記録が残されています。

昨日ノ笠置丸デ来タ、赤坂(原文ママ)俊子ト云フ女流画家ガ役所へ訪ネテ来ル

その後俊は、土方にパラオの島々を案内されたり、展覧会を世話してもらったり、6月初旬に横浜港に帰国するまで、半年ほど充実した日々を過ごすのです。

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1940年3月24日の日付の入った俊による土方久功の肖像スケッチ(土方家旧蔵)。

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こちらも土方家の旧蔵で、1940年3月30日、「かやんがる島雨の日に、土方先生を描く」と記されたスケッチです。

油彩画も数多く描いており、このときの体験は、俊の生涯の画業においても、裸体の人物表現や鮮やかな色彩などに重要な影響を与えたと言われています。

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今回のパラオ行きは、近現代史研究者のKさん、お連れ合いのYさんとわが家の家族の遠足旅行。若き日に「南洋群島」を旅した赤松俊子の足跡をたどる調査の旅です。
Kさんとの遠足旅行は、これまで藤沢、北海道、沖縄、広島、水俣を訪れ、長崎行きは東日本大震災の影響でキャンセルとなりましたが、それ以来久しぶりの復活で、海外は初めて。

前日の午後1時55分成田空港発の大韓航空に乗って、ソウル経由でパラオ国際空港に到着したのが日付が変わって午前1時すぎ。途中のトランジットが長かったせいもあるのですが、現代でもパラオは決して近くはないと実感しました。俊が「南洋群島」を訪れた際には、船で10日間ほどかかったようです。
それでも当時は日本郵船によってサイパン丸、パラオ丸、横濱丸、近江丸、山城丸、天城丸、泰安丸、笠置丸、駒丸丸といった多くの船が日本と「南洋群島」を行き来し、1935年の島勢調査で群島人口102,537人のうち日本人(朝鮮人、台湾人含む)人口51,861人が、現地住民50,573人を上回るほど多くの人が住んでいたのです(ただし、その多くは沖縄出身者でした)。

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空港に到着した夜は真っ暗闇のなかを車でホテルに移動したので、あまり実感はなかったものの、翌朝目が覚めると、そこは確かに、南の島でした。
輝くような陽ざしに照らされたホテルのプールに、子どもたちも大よろこび。

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朝食をとった後、まずはパラオの中心・コロール市内にあるベラウ国立博物館(Belau National Museum)を訪れました。

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ベラウ国立博物館は、1955年設立の、ミクロネシアではもっとも古い博物館。
現在の展示室は、2005年9月に建てられた新館です。

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隣接する旧館は、今はライブラリーとして使われており、かなり改築されていますが、日本統治時代に気象観測所庁舎だった建物だそうです。

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前庭には、カヌーや日米戦争の遺物(戦闘機のプロペラや、高射砲、戦車の一部)などが展示されていて、その奥には、木造藁ぶき屋根のバイ(ア・バイ)が建っています。
バイはパラオの伝統的な施設で、身分の高い男性専用のものと、地域の集会用のものがあるそうです。集会用のバイでは、年長者が年少者に生活の様々な知恵を授ける学校のような役割を果たしていたとのこと。

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かつては各地の集落に存在していたのですが、19世紀後半より次第に減り始め、日米戦争時の戦火によって激減。博物館前のバイは、1969年に政府によって建てられたのですが、79年に放火により焼失し、90年に再建されたものです。

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俊の1940年の油彩画《パラオ島》(1940年第27回二科展入選作《パラオ島民集会所》の可能性あり)には、バイの入口に3人の男性が座っている情景が描かれていますが、よく観ると絵の奥にも別のバイが描かれており、2棟並んでいることがわかります。

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南洋群島文化協会発行の8枚組絵葉書『笹鹿彪画伯筆 南洋群島 その1』に収められている《コロール・アバイ》にも、俊の油彩画と同じ装飾が施されたバイを含んだ2棟のバイが描かれています。おそらく俊の油彩画《パラオ島》は、当時コロール島に存在した2棟並びのバイを描いているのでしょう。

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バイの外壁には、色彩鮮やかな装飾が施されています。
魚やサメ、動物たち、女性、漁や狩りの様子から、戦争などの歴史やまざまな伝承が彫り込まれているのです。

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俊の油彩画にも描かれているニワトリの絵が目をひきます。
パラオでは今もあちこちの家でニワトリ(セキショクヤケイ、パラオでは「マルクレオムル」と呼ばれる)が飼われていて、夜明けには一斉に鳴き声が響いていました。

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不思議な鳥の姿も見られるのですが、これは土方久功の記した「ア・バイの絵」(『パラオの神話伝説』、1985年、三一書房刊)によれば、「パラオの珠貨を産んだと伝えられる、デレロックと呼ばれる神鳥」で、「オカク鳥(ちゅうしゃくしぎ)に形どられたもの」だそうです。

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入口の梁には、赤い目をした大コウモリが笑っています。

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内部は板張りになっていて、火を起こす場所が2カ所あり、柱や梁にも装飾が施されています。

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屋根の内側を見上げると、釘が一本も使われずに組み立てられているのがわかります。

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裏側の外壁には、巨大な人のもとに食料を運ぶ人々の様子が描かれていました。これは、パラオ諸島の創世神話のひとつウアブの物語でしょうか。

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バイの装飾は、ユーモラスな表現とストーリー性のある内容が面白く、じっくり見ていくと非常に興味深いです。

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国立博物館のなかに入ると、パラオの神話的起源からはじまり、スペイン、ドイツ、日本、アメリカに統治された時代ごとの資料が展示されていました。

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パラオ人は、どうやら3000年ほど前にインドネシアやフィリピンから渡来してきた人びとの末裔のようですが、パラオに伝わる伝説では、「海からやってきた(エビから生まれたという話が伝わる)」とされているそうです。
歴史年表を見ると、西洋人がはじめてパラオを訪れたのは、1579年に英国のフランシス・ドレイクが現れ交易を行ったのが最初とのこと。
もっとも、パラオでしばしば目にしたのは、1783年に英国人ヘンリー・ウィルソン船長率いるアンテロープ号がアラカベサン島沖で座礁したという事件の逸話。その際に初めて西洋人との本格的な交流がはじまり、英国人たちが小型船を建造して帰還するとき、パラオの部族の長・アイバドルの息子リー・ブーが英国に留学したのです。
リー・ブーはロンドンに着いてから半年もしないうちに天然痘で病没してしまうのですが、彼が携えたジュゴンの骨のブレスレットやベッコウの皿などは大英博物館に収められており、この悲劇が英国人のパラオへの関心を高めたそうです。
現在、コロールの中心部にあるパラオ・コミュニティ・カレッジの正面には、リー・ブーの像が立っています。

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その後、19世紀後半にはドイツ・スペイン・英国が太平洋諸島の支配権を争い、ローマ法王の裁定で1885年にスペインの植民地となります。しかし、米西戦争で敗れたスペインは、1899年にパラオをドイツに売却。このドイツ支配時代にアンガウル島の燐鉱石採掘がはじまり、後に日本の南洋進出にも影響を与えていくのです。

日本がパラオの統治をはじめたのは1914年。第1次世界大戦に連合国として参戦し、軍事占領したのです。1920年に国際連盟が発足すると、「南洋群島」は日本の委任統治領となり、1922年にパラオ・コロール島に南洋庁が設置されました。
植民地時代には、島民向けの公学校が相次いで作られるなど、現地の日本化政策、皇民教育が行われ、移民主導による殖産興業も進められました。
しかし、日米開戦後は戦局の悪化にともない、1944年3月30日、31日にはパラオ大空襲が行われ、秋にはペリリュー島、アンガウル島が「玉砕」戦の舞台となるのです。
戦後は米国を施政権者とする国連信託統治地域となり、1981年にパラオ憲法を施行して自治政府を発足。ところが、憲法に「非核条項」を含んでいたため米国との交渉が難航し、正式に独立したのは「非核条項」を米国に関して棚上げするかたちで承認された1994年のことでした。

日本統治時代の「南洋群島」における文化活動については、2008年から翌年にかけて町田市国際版画美術館、高知県立美術館、沖縄県立博物館・美術館を巡回した「美術家たちの『南洋群島』」展で詳しく紹介されました。
企画者の滝沢恭二学芸員(町田市国際版画美術館)が図録に記された論考によれば、「南洋群島」に渡航した美術家は50人あまり。その多くは日本が国際連盟を脱退した1934年以降に渡航しています。
そうした美術家のなかで、俊は「自分のなかにある「南洋群島」のイメージに沿うように島の典型的な風俗や自然だけを選んで描くのでなく、新旧混ざり合った現代の現地住民たちの姿を同じ高さの目線で等身大に描き出している」という制作姿勢が特異であり、「そこにはエキゾチシズムの視線がないわけではないが、むしろ旅行者の域を超えて現地住民の生活に溶け込もうとする画家の姿を感じ取ることができる」と評価されています。

日本統治時代の芸術文化展示には、土方と俊が現地の人と共に撮影した写真がありました。

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そして、土方によるスケッチ4点と彫刻1点、俊によるスケッチ6点(いずれも複製と思われる)が展示されています。以下に、俊の作品に添付されていた英文タイトルを書き出します(括弧内は、画面に記入されていた日付など)。

In Ngarchelong (1940 アルコロンにて)
Traveling by ship (1940.2.29 Tachibana)
Sewing Lesson (2600 俊子)
Chief of Koror (1940.2.11 コロール村長さん)
Two Men in Bai (1940.1.30)
Hijikata-san (1940.2.26)

俊についての展示解説文は次の通り。

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1940年、若き女性芸術家、赤松俊子がパラオを訪問しました。
戦後、赤松俊子(丸木俊)は、「原爆の絵」など戦争をモチーフにした絵画を描き、反戦芸術家として知られています。
赤松が戦前のパラオで描いたスケッチは、くったくのない明るさに満ち、パラオの人びとの日常生活が生き生きと描かれています。


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ドイツ統治時代の芸術文化コーナーに、20世紀初頭にパラオを訪れ、水彩画やスケッチで現地の風俗を描いたエリザベス・クレーマー(Elizabeth Kraemer)や、ドイツ表現主義の芸術家集団「ブリュッケ」の一員であったマックス・ペヒシュタイン(Max Pechstein)やエミル・ノルデ(Emil Nolde)の作品が紹介されていたのも興味深く思われました。
「南洋群島」時代の画家たち以前にも、芸術家にとって南の島は魅力的な場所だったのです。
ペヒシュタインとノルデについては、「美術家たちの『南洋群島』」展図録で奥野克仁学芸員(高知県立美術館)が論考を記しています。

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日本統治時代の展示の最後に「太平洋戦争と日本統治時代の終焉」というパネルがあり、1942年に「資源調査隊」としてパラオの現地住民約60名が、1943年に「挺身隊」として約30名が徴収され、ニューギニア島などへ派遣されたことや、戦争のパラオ人の死者が100〜200名あったことが記されていたのにも興味を惹かれました。

1944年3月30日、31日のパラオ空襲では70名の死者があり、日本の航空機147機、艦船21隻が失われたそうです。
また、同年9月15日から11月24日まで行われたペリリュー島の戦闘では米軍1,684人、日本軍10,022人が戦死。アンガウル島でも9月17日から10月19日まで激しい戦闘が行われ、米軍260人、日本軍1,150人、パラオ人数名が戦死しました(日本軍の生還者はペリリュー島446人、アンガウル島50人)。
両島のパラオ人住民は事前にバベルダオブ島に疎開させられたため直接の犠牲にはなりませんでしたが、島は徹底的に破壊され、村は完全に消滅してしまったそうです。バベルダオブ島では米軍の上陸はなかったものの、米軍機の機銃掃射によりパラオ人、日本人ともに民間人に被害が出ました。
当時の食糧事情は困難を極め、ペリリュー島とアンガウル島以外の日本側の戦死者4,838人の大半は餓死と伝染病による戦病死であったそうです。
戦争末期にはパラオ人による「斬込隊」が結成され、軍事訓練を受けましたが、実戦の機会はありませんでした。
戦争終結時には約4万人の日本の軍官民とパラオ人がいましたが、9月21日より引き揚げが開始され、翌年2月26日に完了したそうです。

続いて、現地の人の戦争体験談が展示されていました(以下は証言の要約)。

沖縄や朝鮮の人が多く働いていたアイライの飛行場で水汲みの仕事をしていたところ、米軍機の機銃掃射にあい、すぐとなりにいた朝鮮の人が二人死んでしまった。アイライの山から見ると、コロールが火だらけになっていた。(マルキョク出身、1927年生)

空襲から疎開した先で、漁を終えて村に帰るとき、仲間たちが日本の軍曹に理由もわからず集団で殴られ、蹴られて、ひどい目にあった。自分も歩けないほど殴られて、人に手伝ってもらって移動した。このとき、ある酋長は手を縛られてひっぱたかれ、耳が聞こえなくなった。(アイライ出身、1920年生)

空襲から避難して二人の子どもや両親、夫の姉妹やその家族と一緒にジャングルに逃げ、はじめはタロイモを食べていたが、次第に食料がなくなり、ペロイという苦い毒のある実のあくをとって食べて命をつないだ。(コロール出身、1917年生)

アンガウル島から避難できなかった現地住民は、毎日米軍の機銃掃射や艦砲射撃から逃げ回っているうちに日本軍といっしょになってしまったが、日本軍といっしょでは危ないと考え、連隊長に「最前線に僕らがいると兵隊の邪魔になるから、一歩下がります」と言ったら許可された。やがて米兵に出会って仕方なく投降したら、テントには食料がたくさんあり、日本軍や学校の先生には「アメリカ兵に捕まったらひどい殺され方をする」と言われていたのは、嘘だったんだとわかった。(アンガウル出身、1928年生)

こうした証言を読むと、パラオ諸島で行われた戦争は、まったく、その半年後にはじまる沖縄戦の前触れです。この美しい南の島で、遠く離れた日本と米国が戦争を行うことの理不尽を思わずにはいられません。

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博物館を見学した後は、住宅街を歩いて町の大通りに向かいました。

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南国の情緒あふれる道を、駆け足で小さな野性の鳥が通り過ぎていきます。

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見上げると、バナナの実がなっています。

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ハイビスカスも咲いています。

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パラオで一番の大通りにも、空高くヤシの実が揺れています。
南の島の光景です。

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コロールの中心部では、日本の植民地時代の名残の建築物を見てまわりました。
まずはアサヒ・フィールド。野球も日本の植民地時代に伝えられ、「旭球場」が作られたのです。

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パラオでも現在は野球が一番人気のスポーツ。16の州にそれぞれチームがあり、パラオ・メジャー・リーグというリーグ戦が開催されています。とても開放感のある気持ち良いフィールドなので、ここでパラオの野球の試合を観てみたいものです。

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一塁側スタンドの裏には、旧日本軍の戦車が放置されています。

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すっかり錆びついていて、内部は草に覆われていますが、車体には「特二式」と記されたラベルがあります。
日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車で、1942年(皇紀2602年)に制式採用された「特二式内火艇 カミ」という種類。「特二式」というのは皇紀から名づけられたそうです。

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後から調べて知ったのですが、この戦車の特徴は、水上走行時は前後に大型のフロート(浮き)を装着して浮力を得て、上陸後はフロートを切り離して走行する仕組みだそうです。
実は3日目に再びこの戦車を見に立ち寄った際、年配の米国人男性と出会い、彼が盛んに車体の後部の装甲に斜めの切り込みが入っているのを不思議がっていたのですが、どうやら後部フロートを後方へ滑らせて切り離すための切り込みだったようです。

これも後から知ったのですが、戦車の上には、「九六式二十五粍高角機銃」が乗せられていました。戦車とは別のもののようです。

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こうした旧日本軍時代の遺跡は、パラオのあちこちに残されているとのこと。しかし、特に看板などがあるわけではないので、自分で探して歩くより仕方がないのです。

続いて訪れたのは、大通りのネコ・プラザ前にある「パラオ公園」の石碑。

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裏面には「昭和御大典記念事」とあり、その下は土に埋まっていて読めません。
1928年11月の昭和天皇即位式を記念して作られた公園の跡なのでしょう。

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大通りを西に進み、Y字型の分岐点に立つ鉄筋コンクリート造の建物は、旧南洋庁ラパオ支庁庁舎。現在はパラオ最高裁判所として使用されています。
おそらく土方と俊が初めて出会ったのは、この庁舎だったのではないでしょうか。

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この南洋庁に向かって右側にあった南洋庁職員厚生施設の昌南倶楽部で、俊は1940年3月15日から18日にかけて、土方や南洋群島文化協会の野口正章らの協力によって個展を開催しています。
ベラウ国立博物館の展示によれば、「昌南クラブは、日本人の娯楽施設で、普段は碁会所などとして使われていて、時には展覧会やパラオの伝統的なダンスショーなどが開催された。クラブの庭にスクリーンを持ち込んで映画上映がなされることもあったという。今日この場所はパラオ高校となっているが、当時の門柱が残っている」とのこと。
その門柱も確認してきました。

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このほか、最近までパラオの国会議事堂だった建物も、かつての無線電信所庁舎でした。
増築を重ねてほぼ原型をとどめていないようですが、もとは海軍特設無線電信所で、1926年竣工という、現在パラオに残る日本統治時代の建物の中で最も古いものだそうです。

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実際に町を歩いてみると、南洋庁を中心とする建物は、1km程度の本当に狭い地域に密集して建っていたことがわかります。俊や土方、そして俊が滞在した翌年に南洋庁に赴任してきた作家の中島敦らも、この大通りを何度も歩きまわったことでしょう。

まだまだコロールには日本統治時代の建物や遺構、防空壕などが残されているようですが、さらに調査を進めていきたいところです。
「パラオ・コロールにおける日本委任統治期建築物の現存状況」という、熊本県立大学の研究もあるようです。
http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~m-tsuji/ronbun.html/paper04.html/pap0407.pdf

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建築物調査のあいだ、妻と子どもたちはホテルのプールでたっぷり遊んでいました。
この日の夕食は、ホテルに近い人気のパラオ料理店。
目の前で選んだ新鮮な魚をフライにしてもらい、タロイモやタピオカの料理、シャコ貝のココナッツ煮やマングローブガニなどのパラオフードの盛り合わせを美味しく頂きました。

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