2012/10/30

大阪精華美術学院と松村景春  作品・資料

「平和のための博物館ネットワーク全国交流会」に参加した関西出張の帰りに、大阪精華美術学院の校長・松村景春のお孫さんご夫婦のお宅にお伺いして、さまざまな資料を見せて頂くことができました。

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写真は松村家のアルバムから、松村景春の肖像写真(1952年5月撮影)。
トレードマークの立派な髭をたくわえています。

丸木位里は広島・飯室村の小学校を卒業後、しばらく各地を放浪するような生活をしており、1919年頃に大阪の知人宅に居候して天王寺の上本町(うえほんまち)にあった大阪精華美術学院に通いました。
また、位里が通ってから20年ほど後に精華美術学院の門をくぐったのが、鳥取県出身の武良茂という青年。のちの漫画家“水木しげる”でした。
無試験で美術を学ぶことができるというこのユニークな学校について、二人がどのように回想しているかは、以前にも学芸員日誌で紹介したことがあります。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1545.html

今回、見せて頂いた資料のなかで、もっとも興味深かったのは『精華美術50年の歩み』という1963年に同窓会が編纂した刊行物でした。
そこには、松村景春の「経歴書」などの詳しい資料が掲載されていたので、それをもとにしつつ、お孫さんのお話をまじえて紹介いたします。

   *   *   *

松村景春は1882年1月7日に大阪府中河内郡南高安村(現在の八尾市)の豪農の長男に生まれました。先祖は神社の神官だったそうです。
八尾中学を経て、1900年3月に京都市美術工芸学校(現京都市立芸術大学)を卒業。

驚いたのは、その後、1902年に「意匠図案研究」のためアメリカへ渡航していたこと。
前回の企画展で紹介した画家・吉田博が「決死の思いで」渡米したのが1899年ですから、美術家の海外進出の最初期にいち早く海を渡った一人だと言えるでしょう。
同年10月にはニューヨークのコロンビア大学美術部へ入学しています。
翌1903年6月にクーパーユニオン大学へ転学。お孫さんの話では、すでに実家が傾き、後援者あっての留学だったので、奨学金獲得のための転学だろうということです。
1905年に同大学を卒業すると、まもなく5番街プレスピテリアンビルディング内に日本図案製作所を開設。さまざまな美術工芸品の実用図案を研究開発し、成功をおさめました。

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写真は、景春がニューヨークに向かう道中の貴重な写真(提供:松村眞吾さん)。

やがて1911年に帰国すると、翌年4月には大阪市天王寺区上本町9丁目に精華美術学院を設立。9月に学院長に就任しています。
第1期生・家川弥吉の回想によれば、「上本町九丁目電車道を南入小路角の二階家の借家で、付近には大阪の名所紅葉寺、毘沙門池の墓地、五条神社、四天王寺墓地、愛染堂、清水寺等運動場にもなり、写生材料にもなった、思出の多い処である」という恵まれた立地だったようです。
開校の主旨は次の通り。「本院ハ絵画及工芸図案ヲ教授シ専ラ海外貿易ニ関スル応用美術ノ奨励ト美術思想ノ普及発展ヲ計ルヲ以テ本旨トス
つまり、国外輸出を目的とする絵画・工芸の図案教育のための学校だったわけです。

「図案」という言葉が新しく生まれ、杉浦非水による『非水図案集』などが刊行されて注目を集めた時代。流行の先端を行く、デザイン系の専門学校といった感じだったのでしょうか。
1912年11月24日付『大阪朝日新聞』や『大阪新報』には、校内に生徒が製作した新図案を陳列する展覧会を開催し、犬塚大阪府知事らが参観したと紹介されています。
また、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブでは、1926年12月23日付『大阪毎日新聞』に、大阪府工芸協会理事という肩書きの松村景春が記した「対米工芸品輸出に就て」という記事を読むこともできます。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00842025&TYPE=HTML_FILE&POS=1

もっとも、そうした先進的な理念とは異なり、指導方法は、「畳敷きにレザーをしき、用具一式を列べて、机にして、粉末絵具を、ニカワでとくという製作態度であった。先生は下のアトリエにおられたが、その部屋へは、自由に出入ができ、先生をお呼びしては指導を受ける。時には画具の合せ方、筆を加える等、現代的ではないが、細にわたりお指図を受けた」(家川弥吉の回想)という古典的な内容だったので、丸木位里や水木しげるにとって、あまり肌が合わなかったのもわかるような気がします。

とはいえ、「先生が大風呂敷と学院のPL(岡村註:PRのことか)が中々上手で新聞社もよく抱き込まれ当時は精華美術といえば大阪では大体知れ亘り「美」の字の校章の帽子にはかまをはいて歩いた学生姿は誇らしく嬉しいものだった」(卒業生・大沢龍太郎の回想)とのことで、位里も画文集『流々遍歴』では、美術の学校に入ったことが嬉しくて、早速学帽に「美」の徽章をつけ、スケッチブックを持って天王寺界隈を得意になって歩き回ったと回想しています。

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『精華美術50年の歩み』には、(なかなか前衛的な色使いの印刷なので見にくいのですが)「美」の一字の校章や、当時の学校風景の写真も紹介されています。

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天王寺美術館前で撮影したと思われる写真や、校旗(?)や松村校長の銅像などが写った集合写真も残っています(提供:松村眞吾さん)。

入学試験もなく、学びたい者は誰でも来て学べばいい、という開放的な校風の精華美術学院。
松村校長が単身31年間続けてきたこの個性的な学校が幕を閉じたのは、1943年12月のこと。
戦局悪化により在校生が次々と応召され、「国家非常時に鑑み」廃校となりました。
さらに1945年3月の空襲で学院も焼失。景春も故郷の高安へ隠居したそうです。

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晩年の景春が手がけた日本画を数点、見せて頂きました。
お孫さんの話によれば、景春は京都の四条派に傾倒していたとのこと。
「景春」という画号(のちに本名に改名)も、四条派の始祖・呉春(松村月渓)と松村景文から一字ずつとったようで、本当は日本画家になりたかったのではないか、ともおっしゃっていました。

敗戦後の1947年には、戦後貿易輸出品向上研究会を主体として学院再興計画も持ち上がったようですが、結局実現しないまま、1963年に景春は死去しました。
自由で開放的な家風は景春亡き後も家族に引き継がれ、子どもや孫たちの多くは、日米両国を渡りながら、多方面で活躍されているようです。

快く調査にご協力下さった、松村眞吾さん・敦子さんに、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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