2012/10/7

美術館ニュース発送作業/丸木俊と女子美術専門学校  執筆原稿

一日がかりで美術館ニュースの発送。
今回は同封物の多い発送作業でしたが、ボランティアで7名の方々が参加して下さって、何とか終えることができました。

今回の美術館ニュースの連載「丸木位里・丸木俊の時代〈第12回〉」では、女子美術専門学校時代の俊について書きました。
俊にとっては、はじめて本格的に絵画技術を学びはじめた時期。
経済的にはたいへんなことも多かっただろうと思いますが、しかし、その回想からは、向学心にあふれた一人の少女の、伸びやかな青春の日々が伝わってきます。
「ミス・ハッパイ」と呼ばれるほど大食家であったというエピソードも、微笑ましいです。

下の「連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第12回〉」をクリックすると、ニュースに執筆した記事の内容を読むことができます。


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連載 丸木位里・丸木俊の時代 〈第12回〉

旭川高等女学校を卒業した俊は、単身上京して、女子美術専門学校師範科西洋画部に入学。
似顔絵描きのアルバイトで生計を立てる苦学生にもかかわらず、めきめきと鋭い描写力を身につけていった。(文中敬称略)

●女子美術専門学校

 一九二九年春、俊は旭川高等女学校の先生に勧められ、東京の女子美術学校(現女子美術大学)に石膏デッサンと静物画を送ったところ、入学試験に合格した。父の淳良はこまめにつけていた家計簿を出してきて「この収入と支出では東京の学校にやることはできない」と説得したが、俊も負けずに泣きながら頼みこむと、自身も進学を断念した経験のある淳良は「それでは、一学期だけ行ってみるか」と折れて、単身ふろしき包みをさげて上京することになった。

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[旭川高等女学校の卒業時の俊]

 女子美術学校は一九〇〇年に、「芸術による女性の自立」、「女性の社会的地位の向上」、「専門の技術家・美術教師の養成」の精神を掲げて、東京の本郷弓町に設立された私立学校。当時、女性が体系的な美術教育を受けることのできる数少ない教育機関だった。一九〇八年には本郷菊坂町に移転し、俊が入学した年の六月には専門学校に昇格している。授業料は、年間七六円。同級生には財閥や高官、軍人の子女が多かったという。

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[1930年5月14日、木更津での潮干狩。前列右端が俊]

 俊ははじめ、北千住の荒川放水路の近くの親戚の家に同居した。夫婦は事業に失敗し、伯母はよその店先で精進揚げを揚げ、伯父は靴のかかとの皮を糊付けして内職をしていた。学校では、「おさげの先に紫のリボンをつけた人や、細いかかとの靴をはいた人や、紅をつけた人が美しい東京の言葉で話しながら勉強をしていました」(丸木俊子『生々流転』一九五八年、実業之日本社、のちに改訂され『女絵かきの誕生』として一九七七年に朝日新聞社、一九九七年に日本図書センターより刊行)という都会の雰囲気に圧倒されながらも、懸命に画家になるための努力を続けた。ヴィーナスの石膏像を木炭で描くデッサンの授業については、美術教師によって作者の個性を消される指導法だと、後に繰り返し批判的に回想している。

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[女子美術での授業の様子。中央奥で絵筆を持った右手を水平に挙げておどけているのが俊]

 美術學校教育を受けたこれ等の少女は、實に不幸でありました。手には專門學校卒業というかゞやかしい證書は握つてはいるが。わたしは、免状とりの娘や、まあ、嫁入り前まで遊ばして置くのも何だから、といつた仲間の中で、燃えるような藝術えの魂が、一寸の動きもとれぬ状態に追ひこめられていることを、卒業と同時に悟りました。何という無駄であつたかと。そして、その後悔は、恐ろしくも三十七歳の現在まで續いています。あの感受性の強い、驚き易くそまりやすく、成長成熟のさなかの太陽のようにもつともかゞやかしい太陽を必要とする時に、空々しくも凍てついた太陽を與えられていたようなものでした。その間に受けた陰は、いまだにぬぐひ去ることはむづかしい状態にまでなつています。わたしはむしろ、勉強と言えば、こうした型、こう、あらねばならぬと、壓しつけられた與えられた方法から脱け出すための努力でありました。
 (赤松俊子『絵ハ誰デモ描ケル』一九四九年、眞善美社より)

●上野の女似顔絵描き

 夏休みに帰省すると、俊は淳良に「九月からはどうしても学校へやることができない」と言われた。

 旭川高女の先生へ相談に行ったものの、金銭的な問題は簡単には解決できない。この頃のことだろう、郷里の秩父別の人たちが、彼女を支えようと尽力したという話が伝わっている。今も町には、当時俊が描いた油彩画《屯田兵 高尾新八の像》(個人蔵)や、水彩画《庭の秋図》(秩父別町郷土館蔵)などが大切に残されている。

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[《庭の秋図》は、淳良の友人の磯野伊勢松が、俊を物心両面から支援しようと絵画制作を依頼したもので、俊は磯野家を訪れ、裏庭の色づいたほおずきと満開の野菊を描いた。]

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[《屯田兵 高尾新八の像》は、モデルが60歳のときに描かれた油彩画で、屯田兵による開拓村という秩父別の歴史をも物語る作品。現存する俊の最初期の油彩画だが、後の特徴となる卓越した人物描写の力量を、すでに伺える点が興味深い。]

 丹念に観察して描かれたこれらの作品からは、彼女がアカデミックな美術教育を着実に身に着けていたことが伝わってくる。俊は、その弊害から逃れるために苦労をしたと語っているが、しかし一方で、この時期に画家としての描写力や観察眼を鍛えたことが、彼女の画家としての基盤になったことは確かだろう。

 やがて「女書生の口あり」という話を聞き、材木商の番頭について東京へ戻った俊は、新宿の外れの小さな別荘に住み込んだ。しかし、番頭が夜中に寝床に入ってきたり、秩父別の実家に金をせびるようになったために、「チチキトク」の電報で救い出され、山形から来た友人と本郷三丁目の女子美術の坂を下りたところにある北側の二階の三畳間を借りて自炊生活をはじめた。
 その後は女子美術付属女学校の生徒一家が留守番に入った本郷の下宿屋で暮らしたり、落合火葬場の近くに数人で家を借りたり、転々と間借り生活をするようになった。

 実家からの仕送りが途絶えると、俊は授業料と生活費を稼ぐために、上野の山下で似顔絵描きのアルバイトをはじめた。昼夜銀行の前に画架を立て、看板にグレタ・ガルボやモーリス・シュヴァリエなどの映画スターの似顔絵を描いて鋲で止め、画板を首から下げると、女絵描きを珍しがって、浴衣に洗い髪の芸者や粋な若い男性たちが集まって来て、似顔絵は一枚二〇銭で売れた。

 俊は叩き売りのバナナ屋に連れられて親分に挨拶に行ったことや、女子美術の友達が応援に駆けつけて呼び込みをしてくれたこと、男の絵描きと似顔絵描きの勝負をして勝ったことなど、当時のエピソードを楽しそうに回想している。
 俊の苦学ぶりを描いた短い随筆に、一九五〇年一月一一日付『早稲田大學新聞』第八〇号に掲載された『ハッパイ』がある。

 当時の俊の別名は、ミス・ハッパイ。「クラス唯一の苦学生で、栄養不良、とうとう脚気になつたがそれでも先輩の絵かきの奥さんには『さあさあミス・ハッパイ』といつて御馳走してくれる余裕又あつた。一週間も郷里へ帰つてくれば何はなくとも大食して体はかいふくした」と回想している。姪の丸木ひさ子によれば、俊は晩年もたびたび、若い頃の自分の別名が「ハッパイ」であったことを懐かしげに語っていたという。

   *   *   *

 俊が女子美術に入学した一九二九年は、秋に小林多喜二の『蟹工船』が刊行され、プロレタリア文化運動が大きな広がりを見せた時期であった。時代の空気に鋭敏な学生たちは、こうした動きに影響を受け、俊のまわりでも共産主義やマルクス主義について議論が行われていたようだ。やがて、尖鋭的な学生は退校して街へ出ていったが、俊は学校に残り、いつも鉛筆を握っては絵を描き、一直線に画家の道を進み続けていた。【続】
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