2012/7/4

『藝備日日新聞』に投稿された丸木位里の文芸作品  作品・資料

2012年7月10日発行の『丸木美術館ニュース』第110号に、『藝備日日新聞』に投稿された若き日の丸木位里の文芸作品を紹介しました。
20代後半の位里は、絵画よりも、詩や短篇小説を精力的に制作していました。
位里の投稿は1926年1月から30年8月までの5年間で50点ほどに及びます。
そのうち、約半数が恋愛を題材にしたものです。
それらの作品には、位里自身の体験が大きく反映されていて、この時期の彼の足どりをたどる上で貴重な資料でもあります。
ニュースでは紙面の都合で十分に紹介できなかった作品もあるので、少々長くなりますが、以下にまとめておきます。(右下「続きを読む」をクリックして下さい)

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1926年1月25日、当時広島県内で随一の発行部数を誇っていた『藝備日日新聞』(本社・広島市大手町、1888年創刊)の文芸欄に、丸木位里の投稿詩「戀(こい)」が掲載されました。

 戀    丸木位里

 戀を求めよう
 眞劍な戀を

 どんな事情があるにせよ
 別れて居なければならない様な
 夢のない戀はいやだ

 死んでも別れないと口では云っても
 そのじつ別てゐれられる様なのは
 いやだ

 戀を求めよう
 眞劍な戀を


位里はこの頃、弟の宜三が養子に行っていた山県郡加計町(現・安芸太田町)の青葉堂文具店にしばらく暮らしていました。
そこで、詩のような「真剣な恋」に出会っていたようです。
丸木位里画文集『流々遍歴』(岩波書店、1988年刊)には、次の回想が残されています。

==========

 その頃、大変好きな女の人が現れた。仲良くなって付き合っておったが、その人の家には男の子がおらなかった。だからその家は養子をとらなければならない。せっかく好きになったのに、その人はむりやりお婿さんを迎えさせられたんだ。わたしも本当に残念に思って落胆したが、二人でどこかへ逃げるだけの勇気もなかった。その人が結婚することになって、わたしたちはもう逢うこともできない。わたしとその人の間はそれっきりになってしまった。

 だが運命というか、しばらくたってから、懇意にしている医者のところへ遊びに行っておったら、そこでばったりその人に会った。その人は結婚してからすぐ離婚をし、また一人になったというんだ。その後も何度か会って話をしたりしているうちに、今度はどうしても一緒になろうということに話が進んだ。ところが、その人の家では、わたしとの結婚には反対だった。それでも親を何とか説得して、正式に結婚することになり、籍も入った。


==========

彼女の名は、児玉貞子といいました。
丸木家の戸籍には、貞子は1905年4月16日に加計町の児玉静一とツタの次女に生まれたと記されているので、位里より4歳年少になります。

位里の妹の大道あやの回想(『へくそ花も花盛り』福音館書店)によれば、貞子は「背がスラリとした美人」で、母親のスマは「丸髷を結うて、位里といっしょに出かけてゆく姿を見たら、女の私でもほれぼれするようじゃった」と言っていたそうです。
あやは、「兄はこの義姉さんが心底すきじゃったんでしょう」と証言していますが、実際、位里の作品には彼女への思いがあふれるほど感じられ、別れと再会、そして結婚から死別へという悲恋の行方をつぶさにたどることができるのです。

たとえば、1926年4月12日掲載の「心が狂ふ」という作品。

 心が狂ふ    丸木位里

 一日の内に二三度はきつと心が狂ふ
 戀する女でもなぐりとばしてやりたくなる
 みぶるいのつく 程いやな女でも 抱いてやりたくなる
 完發に近いキヤンバスでも
 引きさきたくなる
 わすれて居たまずい習作がたまらなくすきになる
 泣いて別れた女より
 喧嘩して別れた女が
 戀しい


そして1926年5月24日掲載の「失戀男の言葉」という作品。

 失戀男の言葉    丸木 位里
 
 今日まで大切にしまつておいた
 百通あまりのレターも
 三枚の寫眞もみんなやきすてた
 それはおまへに對する
 小さき復讐だ。
  × × × 
 あくたのように捨られても
 可愛いゝ奴だと
 おまへの身邊につきまとふ
 Kさんのように
 やさしい男でない
 事を知つておけ。
  × × × 
 俺はおまへが幸福に
 暮してくれる事を喜ばない
 あいにく佛様のような
 尊い心の持合せがないから
 戀を戀して、女を憎む。


この時期は、失恋の痛手を叩きつけるような言葉がならんでいます。

しかし、1926年7月19日掲載の短篇小説「家出」は、「M」のもとに駆けつけた友人が「S子」が嫁ぎ先から家出したことを知らせる内容となっています。

 家出    丸木 位里

 プ――ププ――ポ――キン。
 邸の前で集合自動車は止まつた。邸と云つても門も柵もない障子一重内は寝室兼畫室。
 『おいM君ゐるか』
 失敬な奴だとは思つたが……。
 筆を持つたまゝ障子をあけてのぞいた、Kが意味ありげな目で自動車から首だけ出して來いと手まねをする。
 すいつけられる様にスリツパひつかけ近よつた。
 Kはあたりの人をはばかるように少さな聲で
 『S子さんが家出した』
 『エ……ほんとうか――』とたずねた時には自動車は四五間も向ふに走つてゐた。
    ×  ×
 彼は完製に近いS子の肖像に向つて生きたものにでも云ふように
 『うまくやつたなア――だが遅かつた、あんな事がない前だつたら、俺はどんなにうれしいか知れない、どんな犠牲をはらつてゞもお前を幸福にしてやるのに……』
 彼の目には泪さへ宿つた
 S子の家では大さわぎをしてゐるだらう、何しろ解らずやの多い處だから。
 『よそ者めが……大馬鹿者めが……うちの娘をたふらかしやがつて……』
  彼はこんな事をさんさん云われて三ヶ月前きれいに別れたのだつた
  其後S子は間もなく義兄と結婚して幸福な家庭をつくつてゐると聞いてゐた。
 彼は何とか云ひたかつた、だまつてゐたくなかつた、手紙をかいて、
 S子の夫に送る事にした。
    ×  ×
 此度の事件については
 第一に注目されるのは私です。
 しかし今度の事は何にも知りません……が。
 一部のせめはまぬがれません……から負ふべき罪なら進んで負ひませう。
 (終)


3か月ほど前に「S子」と別れたという設定は、先の詩の発表時期とも一致しています。
さらに「鮎せんべい」(1926年8月2日掲載)は、嫁ぎ先から実父のもとに逃げた彼女に会うため、主人公の男が広島土産の鮎せんべいを持って夜行列車で大阪へ向かうという内容です。しかしその思惑は甘く、彼女の父は面会を許してはくれませんでした。彼は逃げるように広島に戻り、友の家で死んだように寝た、という場面で小説は終わっています。

そして「女は恐ろしい ―ある女の手紙から―」(1926年11月1日掲載)は、二人の関係が続いていることをほのめかす手紙を、筆跡を変えて匿名で夫宛てに送るようにと男に策を伝える女の手紙の話です。
この手紙には、次のような女の思いも記されています。

 涙― 涙― 涙―
 どうしてこの大きな胸の痛みを切ない苦しみを癒やす事が出來ませう。
 私は泣きました泣きました、涙の泉の枯れる迄。
 生きる事の苦しさをしみじみ感じました、誰に傳へ様術もなく小鳥は寂しく毎夜泣き明かしました
 『忘れないでね……』
 『分つたよお前の心はよくわしには分つてゐるから…… ……』
 でも私はこう淋しくつてはとても生きては居られません。
 お父様が赦してやつて下さい、
 戀人よ赦したまへ―
 苦しい―悲しい―淋しい―切ない
 ね私どうしたらいゝのでせう、
 熱い情も冷たい理性に依つて裏切られて仕舞つた悲しさ。
 永久に呪しいこの社會、私は情ないです、
 ××様 私の大すきなあなたをどうしてわすれることを出來ませう
 苦しいこの×子の事も察してやつて下さい、私は――死を決した一瞬間を他の人に見つけられてつひに死ぬる事も出來ず、今に苦しい生活がつゞいてゐます。


 その後は「眞劍に狂へ」(1927年8月8日掲載)のように、位里から貞子への思いがたびたび作品に歌われる時期が続きます。

 眞劍に狂へ    丸木 位里

 彼の女よ
 おまへの戀人は
 どんな事があつてもおまへを見捨てはしない
 たとへ世の中の人々がおてんばだ
 不良少年だと云つて
 けむしのようにきらふても
 彼の女よ
 そんなにおびえないで
 そんなに小さいハートに秘めないで
 またしても壊れんとする
 ハートを一生懸命抱いてゐないで
 自由な天地に遊ばしてやれ
 彼の女よ
 世は青春だ
 夏になつたらむし暑いよ
 秋になつたら淋いよ
 彼の女よ
 若き日の去らぬまに狂へ
 眞劍に狂へ


そして「最後のねがひ」(1928年12月10日掲載)には、疲れ果てた彼女が、「すべての策略もつきてしまつて殘つてゐる道はたつた一つなの……」と泣き、「わたしねえ……赤ちゃんがほしい」という真剣な“最後の願い”を語る場面が登場し、数年間続いた恋愛が決着に向かう時期を迎えたことを示しています。

結局、位里と貞子は周囲の反対を押し切って結婚しました。
戸籍上の入籍日は1929年3月27日。
二人にとって念願であったはずの結婚生活は、しかし長くは続きませんでした。
貞子はもともと肺病を患っていて、他人に感染してはいけないと部屋に閉じこもったり、家出を繰り返したりして、わずか1年後の1930年3月6日に協議離婚が成立します。
その後貞子は実家に戻って療養していましたが、位里が無理に会わない方がいいだろうと思っているうちに間もなく死亡したそうです。

位里は、「わたしの人生の中で、わたしが殺したようなものだと思っているのはこの人のことで、わたしと結婚したばかりに無理がたたったんだね。再婚などせずに一人で療養しておったら、そんなに早死せず病気が治って、今日まで生きておったかも知れない。わたしが殺したようなものだと、今でもこのことだけは頭から離れない」(『流々遍歴』)と回想しています。

貞子がどのような思いを抱えて死んでいったのかは定かではありませんが、「文二通―肺で死んだ女の手紙―」(1929年7月29日掲載)には、病弱の女から知人のSに宛てた手紙として、次のような思いが綴られています。

 S様私はもうMとは別れることの出來ない体。廣い地上には私に取つてはM兄様になつて下つたあなたより外にはそれもありません。理想を實現さすためには強い強い人間になりませう、より強くいきることに努力しませう、からだの弱い私ですけれど私はMと一緒になつて樂に暮して見たい等とは少しも思ひません、どんなまずいものを戴いても、どんな苦い労働でも―あまんじて受けます死ぬる迄一緒に働きます
 Mが名もないつまらない人間であつてもそんなことは少しも心配しません
 立派なエカキになることは生活のためでなくつて眞が藝術に生きる人間であつてもらい度いのです。私はMに對してすまないのです雑運命のその中から私を苦み苦んで救ふべく努力してゐることが私の身にしみついて、どうして彼に私の心の中を話したらいゝのがわかりません私のような女を戀した彼が可哀想ですゆるして貰いませう
でも私はすみません様お互ひに助け合つて美しい生活を送りませう
つまらないけれど私だつてありたけの力はつくします何なりとおつしやつて下さい


まだ位里が画家として本格的に歩みはじめる前の、青春の日々の出来事でした。

   *   *   *

【参考資料:『藝備日日新聞』に掲載された位里の詩や散文】
●1926年
1月25日 戀
4月12日 心が狂ふ
4月19日 羨望
5月17日 田舎の小路
5月24日 失戀男の言葉
5月31日 夜警/暮れ行く春―三段峡にて―
6月7日 緑衣の女
7月5日 新らしい帽子
7月19日 避病院/家出
8月2日 鮎せんべい
8月9日 少女の秘密
8月23日 ホトグラフ
9月6日 小篇二題 無題/村芝居
10月25日 誘惑
11月1日 女は恐ろしい ―ある女の手紙から―
11月15日 原芝居少觀
11月22日 酔つてゐたい
12月6日 満足/うぬぼれ
●1927年
1月24日 心の戀
2月14日 青や赤の碁石を竝べる 一、不景氣/二、戀は禁物/三、小供と遊んだ夜/四、三人の若者/五、處女/六、中庸/七、不良青年/八、缼席の理由
2月28日 歌を作る者よ
3月7日 おとなになる
3月14日 不思議な味覺
3月21日 夢の國には美しい詩がある/夢
5月30日 幻の誘惑
6月13日 ある病氣
8月8日 眞劍に狂へ
●1928年
9月17日 兄やんと尊稱される男
11月26日 噂?
12月10日 最後のねがひ
●1929年
1月1日 彼と彼等と酒と
5月27日 兄の心持
7月29日 文二通―肺で死んだ女の手紙
8月12日 親友
11月11日 短篇二つ(A瞬間・B無題)
●1930年
1月5日 要求/藝術/闘爭布告
8月4日 小品四題 嵐/女/金魚/同志
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