2012/5/19

1950年「原爆の図展」新資料の発掘  1950年代原爆の図展調査

なかなか整理する余裕がなかったのですが、このところ、1950年代の国内外の原爆の図巡回展に関する新しい資料が出てきています。
大きな“発見”というわけではないのですが、これまでの調査を裏づけるような貴重な資料なので、少しずつご紹介していきます。

まずは、京都大学新聞社発行『學園新聞』1950年7月10日・17日号の特集「よみがえる傷痕」に掲載された水沢澄夫による“胸打つ戦争憎悪の響き”という評論。

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美術批評家の水沢澄夫(1905-1975)は、最初の《原爆の図》が発表された1950年当時、日本美術会の書記長を務めていたようです。
《原爆の図》に関する従来の記録や評論のなかには、この文章に言及しているものは、おそらくないのではないでしょうか。存在そのものが埋もれていた文章だと思います。

記事には、《八月六日》(現在の原爆の図 第1部《幽霊》)の全体写真が掲載されています。
《原爆の図》は三部作完成後に広島で軸装されるのですが、この写真は、軸装前の表装を記録した貴重な一枚。興味深いのは、作品が額装されているように見える点です。
丸木夫妻は、当初《原爆の図》は仮張りの状態であったと回想しています。
横幅720cmの大画面を分割せずに額装していたのでしょうか。持ち運びは相当大変そうです。

少し長くなりますが、以下に記事の内容を抜粋します。

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 四五日前の夜、彼女の勤め先の新聞社から、たのんであつた「八月六日」の複写写眞を持つてかえつたときの妻の話。
 いまね、市場の八百屋さんに寄つて買物をしたのよ。そのついでに八百屋の若い人たちに写眞を見せたらね、「うわあ、こりやすげえや」と大声をあげたので、お客さんやそこらの人たちまで集つて來て、「だけど、すこし大げさすぎるようだね」なんていう人もいたから、「この画かきさんはね、原爆三日後ヒロシマへ行つて、それから何百枚も写生して、それでこういう画ができあがつたんですつて。だからうそはちつともない、ほんとにこのとおりだつたつて」と説明したら、みんな、「やりきれねえな。戦争はまつぴらだね」とうめくように言うのよ」。


(中略)

 この作品はさる二月、東京都美術館で開かれた第三回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出陳された。そしてさらに四月、これは私がすすめて敢えてふたたび、日本橋丸善画廊での「原爆の図」展に出してもらつた。上野の美術館へは行く人も限定され、こういう作品は街なかでできるだけ多くの人に見てもらわなければならぬと思つたからである。はたして丸善画廊はじまつていらいの連日満員、いつ行つても画廊いつぱいの人人人であつた。このときは「八月六日」とともに、百数十点の、この作品の土台となつたデッサン、およびさらに第二部作の「夜」の一部が出陳された。私は分量的に全「原爆の図」の約三分の一程度見ているわけである。そういう程度の立場に立つて、この作品についてものをいうべきであろう。

 ×   ×

 訂正されたにしても、素人評の一部にあつた「大げさすぎるようだ」という言葉、それはいわゆる玄人がわにもある。エロ・グロだというような言葉は批評以下としても「内容と表現とのあいだに問題がある」とか「レアリズムに徹していない」とか、そういつた批評である。構図にしまりがたりなかつたり、部分的には人体のデッサンがくるつていたりする点はたしかにある。それはたぶん、一言でいえば「伴大納言絵詞(えことば)」の構図や「病草紙(やまいそうし)」のレアリティには及ばないというような事であろう。けれども作者たちは、なぜ油画的表現をえらばないで、日本画的材料をえらんだのだろうか。私はここに、うちわにうちわにと表現することによつて逆にふくむところ多かろうとする、作者たちの一つの野心――彼らの世界観の上にたつ古くてしかも新しい美の創造――の片鱗を見るのである。

 彼らは第二部第三部へと精進をつづけている。そしてそれらはさらに何べんか描きあらためられるだろう。私は現在の『八月六日』にあらわれたもろもろの欠点をつくよりも、これが共同制作であること、二人の作者の成長によつて作品が着々と成長してゆくであろうこと、そこに期待をもつべきだと考える。何よりも、こういうテーマとつつくんだこと――他のどの作家がそれを成し得たか――、すでに五年のとしつきをこれについやしていること、それはわが國の美術界として稀有なことであり、そこに新しいものの創造を期待していいことではないだろうか。「五年経つた。わたしたちは何をしていたのだろう。戦争の痛手にまだ戸惑つていたのだろうか。そうして今原爆の悲しみをさえ忘れようとしている……」自らをそしてお互いにはげましあいながら、丸木・赤松の両氏は制作をつづけているのである。

 『きけ、わだつみのこえ』を見た観衆は、戦争の非人間性・惨忍さに胸つぶされる思いで映画館を出てしばらくは口もきかない。けれども翌日、またその翌日、だんだんとうすれてゆくものを感じ、ストーリーの手薄さや映画技術の安易さが氣になつてくる。『屍の街』を読んだ人は、豊富な素材が、これは作者みずから釈明しているところでもあるが、文学作品としては十分にまだ熟していず、生かされていないものを感じる。

 「八月六日」はその点、いろいろな欠陥をもちながら、私たちのうちにいつまでも一種のやりきれなさをのこす作品である。これは映画や文学と画とのちがいだけではなさそうだし、また、私がいわゆる美術批評家であるからでもなさそうだ。それはたぶん二人の作家の手を組んだうちこみの強さと可能性とに関するものなのであろう。この作品を思いおこすたびに、私も亦、八百屋の若い衆のことばで「やりきれねえな、戦争はまつぴら」と思わずにはいられないのである。


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文中には「四月」とありますが、実際に日本橋丸善画廊で「原爆の図展」が開催されたのは1950年3月22日から25日のことです。
現存するガリ版刷りのチラシによると、主催は桃季会(日本美術会)、発起人には村雲大撲子、内田巌、後藤貞二、別府貫一郎、椎名剛美、水沢澄夫という美術家たちが名を連ねています。
広島県立文書館所蔵の今堀誠二文書「丸木・赤松『原爆の図』についての調査メモ」には、当初はこのメンバーで展覧会を行う予定だったものの、村雲が「個展にした方がよい」と勧めたため、「原爆の図展」に変更されたと記されています。
細かい経緯はともあれ、丸木夫妻の最初の「原爆の図展」に、水沢らが大きく関わっていたことは確かなようです。

《八月六日》が発表された日本アンデパンダン展では、日本美術会の機関誌である『美術運動』と『BBBB』誌上で、この作品が大きな話題となり、水沢が指摘するようにさまざまな批評にさらされています。
それに対し、水沢が「作者たちは、なぜ油画的表現をえらばないで、日本画的材料をえらんだのだろうか。私はここに、うちわにうちわにと表現することによつて逆にふくむところ多かろうとする、作者たちの一つの野心――彼らの世界観の上にたつ古くてしかも新しい美の創造――の片鱗を見るのである」と作品のあり方を積極的に評価している点は興味深いところです。

とりわけ、「私は現在の『八月六日』にあらわれたもろもろの欠点をつくよりも、これが共同制作であること、二人の作者の成長によつて作品が着々と成長してゆくであろうこと、そこに期待をもつべきだと考える。何よりも、こういうテーマとつつくんだこと――他のどの作家がそれを成し得たか――、すでに五年のとしつきをこれについやしていること、それはわが國の美術界として稀有なことであり、そこに新しいものの創造を期待していいことではないだろうか」という箇所、そして「「八月六日」はその点、いろいろな欠陥をもちながら、私たちのうちにいつまでも一種のやりきれなさをのこす作品である。これは映画や文学と画とのちがいだけではなさそうだし、また、私がいわゆる美術批評家であるからでもなさそうだ。それはたぶん二人の作家の手を組んだうちこみの強さと可能性とに関するものなのであろう」という箇所を読むと、まるで現在の視点から《原爆の図》の持つ意味をとらえているようで、同時代にこれだけ作品を正当に評している批評家がいたのか、というのは本当に新鮮な驚きでした。

   *   *   *

そしてもう一点、重要な資料が発掘されたのでご紹介します。
1950年10月に広島市の爆心地・五流荘で開催された「原爆の図三部作展」のチラシです。

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丸木位里 赤松俊子 兩畫伯共同製作
原爆之圖三部作展覽會
日時 十月五日、六日、七日、八日
會場 爆心地 元五流荘 文化會館
主催 廣島美術鑑賞會

原爆から五年たちました。八月六日を中心に、東京の丸善畫廊と三越で開かれたこの原爆の圖展は、九万の入場者を迎えて、東都の人々の魂をゆさぶり泣かせました。
廣島の現實を傳えた歴史、悲しくも香り高いこの作品は、近くアメリカえ出版されることゝなり、ヨーロッパの展覽會にもまねかれている問題作であります。
製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います。
外國や東京、それよりも何よりも地元、廣島の皆様にみていたゞき、強くその御批判をいたゞきたいという兩氏の願いと鑑賞會の希望が一致して、開催のことゝなりました。
廣島の皆様お誘い合せておいで下さいませ。


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このチラシが現存するとは思っていませんでしたが、丸木夫妻が原爆の図海外巡回展の際に関係者に宛てた書簡を集めた袋のなかから出てきたのです。
五流荘展には、峠三吉らの詩人サークル「われらの詩の会」が深く関わっています。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/904.html

五流荘は1947年頃、茶華道の発展を意図した建築主・梶尾健一によって建てられました。
当初は茶室や住まいが建てられましたが、やがて大きな集会場や客間が増築されました。
本来はそれらの集合が五流荘なのですが、一般には棟高5.5m、広さ40坪の三角屋根の大きな集会場を五流荘と読んでいたとのこと。
のちに小島辰一が居住し「広島爆心地文化研究所」と名付けて、平和運動などに極めて開放的に使われていたようです。
チラシに「元五流荘」とあるのは、「原爆の図展」の頃にはすでに「爆心地文化研究所」あるいは「爆心地文化会館」に名称が変わっていたことを示しているのでしょう。

チラシの内容で注目すべきは、「製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います」という箇所。
1950年の時点で、丸木夫妻の《原爆の図》製作過程を記録した映像があったようです。
現在知られているもっとも初期の映像は、1953年公開の今井正・青山通春監督の記録映画《原爆の図》ですが、チラシにある「文化ニュース」のフィルムは、どこかに残っているのでしょうか。
残っていれば、ぜひ実見してみたいのですが……
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