2012/4/20

図画教師・戸坂太郎  執筆原稿

2012年4月10日発行の『丸木美術館ニュース』第109号の連載記事「丸木位里・丸木俊の時代」第10回で、俊の旭川高等女学校時代の美術教師であった戸坂太郎を紹介しました。

戸坂太郎については、宇佐美承著『池袋モンパルナス』(1990年、集英社)に唯物論研究で知られる戸坂潤の甥という記述があるばかりで、どのような方だったのか詳しいことはほとんど知らなかったので、北海道立近代美術館のS氏を通じてご遺族を紹介して頂きました。
その結果、戸坂太郎は実際は戸坂潤の4歳年少の従弟であったことや、旭川高女に14年間勤務した後、北海道学芸大学、北海道教育大学などの教授となり、版画や図学を教えていたこと、1961年に設立された北海道版画協会の初代会長を務めていたことなどがわかったのです。

今回の記事には、「戸坂先生に旭川高女で4年間美術を受け持ってもらった」という元教え子の方からお電話があったり、室蘭在住の画家・北浦晃氏から北海道版画協会の設立の経緯に詳しく触れたご自身の論考「版画についての断章」(2004年文化女子大学室蘭短期大学研究紀要)を送って頂いたりと、思わぬ反響が寄せられました。

こうした反響の大きさから、あらためて、戸坂太郎という人が優れた教育者で芸術家であったのだという思いをかみしめています。俊が彼から受けた影響も、本当に大きかったことでしょう。

下の「連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第10回〉」をクリックすると、ニュースに執筆した記事の内容を読むことができます。


連載 丸木位里・丸木俊の時代 〈第10回〉

旭川高等女学校に進学した赤松俊に試練が襲った。
一年生の秋、実家が火事で全焼し、母親のタカは病死する。
俊は悲しみに沈んだが、まもなく家には新しい母が嫁いできた。
そして人生を変える新任教師との出会いもあった。(文中敬称略)

●新しい母レンと俊

 実母のタカが病死した後、俊は女学校が休みになって家に帰るたびに、残された弟や妹たちの添寝をするなど、母親代わりの役割を担うことになった。年が明けると、父・淳良の再婚話が持ち上がる。相手は新潟県北蒲原郡堀越村の植木レン、当時二九歳であった。

 俊は自伝『生々流転』(一九五八年、実業之日本社刊、のちに改訂され『女絵かきの誕生』として一九七七年に朝日新聞社、一九九七年に日本図書センターより刊行)で、淳良とレンの結婚式を「秋だったような気がします」と回想しているが、善性寺の記録によると一九二六年五月一三日。門徒が料理を用意し、提灯が門について、寺は大騒ぎとなって迎えたという。

 俊をはじめ子どもたちは、「母ちゃんが来る」と楽しみにしていたが、新しい母は子どもの名も知らず、死んだ母とは違うという現実を突きつけられた。俊は失望したが、このままでは家中が重苦しくなると思い直し、率先して新しい母に友達のつもりで何でも話すようにして、次第に仲良くなっていった。

『生々流転』には、俊が両親の留守中に、偶然箪笥の引き出しから避妊具を見つけるエピソードが記されている。俊はレンが自分の子を生まないで人の子を育てようと決意していることに気づき、「これは考えを変えなければならない」、「もっと大人のように考え、努力しなければならない」と新しい母の気持ちを理解するようになったという(このエピソードは『女絵かきの誕生』では削除されている)。

 実際、レンはとてもよく働き、家の中はたちまちきれいに片付いていった。村人たちには茶道(表千家)、華道(松月堂古流)を教え、一時期は留萌、沼田にも出張し、やがて一九六三年から七八年までは秩父別農業高校でも教壇に立った。一九七四年には秩父別の社会文化功労者として表彰され、一九九二年に九三歳の生涯を閉じている。

●図画教師・戸坂太郎

 旭川高等女学校(現・北海道立旭川西高校)では、俊の人生を大きく左右する教師との出会いがあった。俊は、三年生までは教育熱を失った老教師のために図画が嫌いになり、絵描きは断念して教師になろうと思っていたという。しかし、四年生に進級したとき、若い図画教師が赴任してきた。

 教師の名は、戸坂太郎といった。彼は一九〇二年石川県金沢市生まれ。二歳年上の従兄に哲学者として知られた戸坂潤がいる。戸坂潤は一九三二年に軍国主義に向かう時代の流れに抗するように唯物論研究会を設立し、やがて治安維持法容疑で特別高等警察に捕らえられ、敗戦直前の一九四五年八月九日に長野刑務所で獄死した人物である。

 戸坂太郎は、札幌師範学校を経て上野の東京美術学校(現・東京藝術大学)師範科に通い、卒業後の最初の赴任地として旭川高等女学校にやってきたのだった。知的で端正な顔立ちの彼は女学生たちに人気があり、俊は「いいわね、あんなきれいな先生に習えてさ、私も図画がうまいとよかった」と皆に羨ましがられたと回想している。

 若い先生は、いきいきと写生をはじめました。少女たちは湧き立って早速、図画グループを作り、その特別の教育を申し入れました。
 図画教室には写生の土瓶や、コスモスやが花のように咲き、いつも少女たちでざわめくようになりました。 『なんだ、赤松、お前字を書いてるのか、字なんか止めて絵を描けよ』
習字の時間でした。図画の戸坂先生と同時に赴任した加納先生はロイド眼鏡越しに私を見ながらいいました。私はびっくりして、
『いいんですか』
『お前は、好きなことをやれ』
 私はおどろいて習字の時間にも絵を描き始めました。
『何だ、俺の顔か、よく似とるぞ』
習字の時間に描いた先生の似顔を先生は持って自慢げに図画の戸坂先生に見せに行きます。職員室ぢゅう大さわぎになって、先生方は持ちまわって笑っています。

(丸木俊子『生々流転』より)

 このように俊を温かく見守る教師たちのおかげで、次第に絵描きになりたいという夢を再燃させていったのだろう。

 卒業旅行で訪れた登別温泉や青森県の浅虫温泉では、俊は教師や友人の似顔肖像や温泉の風景、汽車の中の様子などを手当たり次第に描きまくり、旅行から帰ると戸坂が展覧会にたくさんのスケッチを展示した。この展覧会の様子は、旭川の新聞にも紹介されたという。

 俊が女子美術専門学校(現・女子美術大学)に進学することになったのも、戸坂らの後押しが大きかった。俊は東京へ行ってからも、北海道に帰省すると、しばしば戸坂のもとを訪れていたようだ。後に女子美術の一学期を終えて、実家の父に「いつまで続くかやってみたが、九月から美術学校へやる金がない」と言われて困窮したときにも、俊が相談したのは戸坂ら旭川高女の教師たちであった。

 そんな戸坂と俊の絆を強く記憶している後輩がいた。一九六〇年代に丸木夫妻が松戸で数年間暮らしたときに、偶然近所に住んでいたことから、身のまわりの世話をするなど夫妻と親しく交流した石田孝子である。女学校のときに図画の担任だったという戸坂の印象を尋ねると、やはり「芥川龍之介に似た美青年で、生徒たちに人気があった」という答えが返ってきた。

 石田の回想によれば、あるとき、戸坂のもとへ、外国帰りだという若い卒業生が訪ねてきて、授業のなかで皆に話をしてくれたことがあった。いつもニコニコして伸びやかに外国の体験を語ってくれる彼女の話を、戸坂も楽しそうに聞いていたという。その若い卒業生こそ、俊であった。

 石田は俊より一二歳年少なので、俊がモスクワから帰国した一九三八年頃の話だろう。当時の軍国教育の時代に、「菊の苗を栽培するときには、立派にまっすぐ伸びているものではなくて、小さくてどこがいいのかわからない、伸びそこなった弱いものを大切に育てなさい」と語る俊の印象は、ひときわ異質で印象深かった。ほのぼのとして、大らかで明るくて、今までこんな人に出会ったことがない……とすっかり心を奪われてしまったと、懐かしそうに話してくれた。

 戸坂は旭川高女に一四年間勤務した後、北海道学芸大学、北海道教育大学などの教授となり、版画や図学を教えた。また、北海道版画協会(一九六一年設立)の初代会長も務めている。優れた教育者であり、芸術家であった戸坂と巡り合えたことは、俊にとってかけがえのない財産となったことだろう。

   *   *   * 

 この頃、北海道では「生活綴り方」や「生活図画」など日常生活を直視して現実を改変しようとする先駆的な教育運動が広がっていた。一九四〇年代に入ると、こうした運動は「アカ」のレッテルを貼られて厳しく弾圧されるのだが、多感な時期にこの雰囲気の一端に触れた俊は、やがて自身も教師の道を選び、教育運動の実践に深く携わることになる。【続】
 (丸木美術館学芸員・岡村幸宣)
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