2012/4/18

吉武輝子さんの訃報  その他

評論家として女性の地位向上や平和運動などに尽力され、丸木美術館の理事も務めて下さっていた吉武輝子さんが、2012年4月17日、肺炎のため80歳で逝去されました。
葬儀は21日正午から東京都新宿区神楽坂5の36の善国寺で行われます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120418-00000001-jij-soci

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吉武さんは、丸木俊が亡くなった際、2000年1月18日付『東京新聞』(夕刊)に“ほら貝に泣いた日のこと”と題する追悼記事を書いて下さいました。
吉武さんが世話人をされていた「戦争への道を許さない女たちの連絡会」主催による“女たちの憲法の集い”が、1993年5月3日に東京・有楽町マリオンで開かれたときの回想です。
このとき、吉武さんは当時80歳だった俊に綿々と思いを書き綴った手紙を書き、俊に登壇を快諾させたと記しています。
集会に登場した俊は2分ほど近況を語った後、布袋から木製のほら貝を取り出し、「昔、昔、百姓一揆のときに吹いたものです。今日は憲法改悪阻止の女の一揆。だから私はほら貝を吹きに来ました」と言って、長々とほら貝の音を鳴り響かせました。
吉武さんはその音に鳥肌が立つような感動を覚え、「丸木さんの怒りと祈りのすべてがこめられて」いると感じたそうです。

もっとも、吉武さんならではの視点が発揮されるのは、この後に続く後半の文章。

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 「みなさん、位里と私のことをおしどり夫婦だとおっしゃる。でも本当は仇敵同士。原爆の図を二人で三十年近く描いてきたけれど、彼は日本画、私は洋画。手法の違う二人が共同制作をするのだから当然ぶつかり合うものがある。絵のほうは歳月を重ねるうちに、日本画、洋画を融合させた新分野を作り出していくことができた。
 でも、位里の女性観は終始一貫変わらなかった。位里は絵かきであり続けたが、私は家事や生活費稼ぎに時間を取られすぎた。私が絵に打ち込みすぎると、位里はぐんと遠ざかる。そして必ず女の影がちらつく。若くして夫に死別した三岸節子さんを、うらやましいと思ったことが何回かあった」
 七歳先輩の洋画家の先駆者三岸節子の伝記を書きたいと私が言ったとき、ふと真情を吐露した丸木さんの言葉が鮮明に蘇ってきた。

 旧姓赤松俊子が十二歳年上の丸木位里と結婚したのは四一年のこと。位里は三度目の結婚だった。俊は北海道生まれ、位里は広島生まれ。原爆投下直後に位里の両親の安否を求めて広島を訪れ、悲惨な光景を目の当たりにしたのが、夫婦で十五部の大作「原爆の図」を描き続けるきっかけだった。
 人の命を無惨に奪う戦争への怒りと、二度と同じ過ちをくり返すことがないようにとの祈りとを、俊は塗り込めていったのだろう。そして同時に、戦前と変わらぬ夫位里の女性観に対する怒りとよきかかわりへの祈りをも。祈りはかなわなかった。それを怒り、また祈る。その切々たる思いがほら貝の音となって響き渡ったのだろう。今も耳を澄ますとあの日のほら貝の音が聞こえてくる。
 だがこの水と油のような男女が夫婦にならなかったら、「原爆の図」は誕生することはなかったのである。


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男に抑圧される女の哀しみ、そして男女の愛憎の果てに見えてくるものを、吉武さんは鮮やかに表現される方でした。
“水と油のような”丸木夫妻の関係は、吉武さんにとって非常に心を惹かれるものだったのではないでしょうか。
2002年8月20日付『デーリー東北』には、小沢節子著『「原爆の図」―描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店、2002年)の書評も記されています。

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 「私と俊が夫婦にならなかったら、『原爆の図』はなかったろう」と言ったのは丸木位里だが、確かに丸木位里と赤松俊子という二人の画家の出会いと人生の軌跡を抜きにしては、三十年にわたる夫妻の連作「原爆の図」について語ることはできない。そして同時に、水と油のような男女が夫婦になったことによって、被爆体験の思想化という苦行にも等しい重荷を背負い続けていくことにもなったのである。
 全世界の人々の心を揺さぶり、二十世紀の黙示録的な役割を果たしたにもかかわらず、戦後美術史の中に位置づけられることもなく、社会的な意味さえをも検討されることのなかったのはなぜか。
 著者は「原爆の図」がたどった運命を、この連作の生成の経過を克明に見詰めながら、そこに描かれたイメージを分析し、かつ社会的な働きをち密に解明しつつ謎解きに迫っていく。


(中略)

 未曾有の体験をしたとき、多くの人たちは、既成の言葉や表現に依存して、悲惨な事実を記憶という形で忘却のかなたに葬ろうとする。常に同時代の問題として迫ってくる「原爆の図」には、あいくちを突きつけてくるようで、時にはいら立ちを、あるいは忌避感を抱かせもするのだろう。

(後略)

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《原爆の図》に犬や猫や鶏などが描かれていることを、小沢さんの著書を読んで初めて気づかされたという吉武さんは、小さきもの、そして他者への心配りを忘れず、優しい心づかいをされる方でもありました。
体調がすぐれないにも関わらず、いつも満面の笑顔で丸木美術館に来られていた吉武さんの姿を思い出します。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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