2012/2/28

田中三蔵さんの訃報  掲載雑誌・新聞

元朝日新聞編集委員で、長年美術担当をされていた田中三蔵記者が2月27日に亡くなられたそうです。享年63歳でした。
丸木美術館にもたびたび取材のために足を運んで下さり、個人的にもたいへんお世話になったのですが、とりわけ深く印象に残っているのは、2004年8月9日『朝日新聞』夕刊文化欄の記事“「戦争画」見直す2展 横山大観と丸木位里・俊”です。
当時、東京藝術大学大学美術館で開催中だった「横山大観『海山十題』展」と、丸木美術館の「《原爆の図》をめぐる絵画表現」展(2004年5月18日-9月3日)を取り上げ、同時代の好対照の動きとして比較した内容です。

1940年、日本画界で統率者的存在だった横山大観(1868-1958)は、「紀元二千六百年」を祝自らの画業50年を記念して「海に因む十題」と「山に因む十題」を制作し、展覧会の売上金50万円を陸海軍に寄贈、軍用機4機が作られました。
その頃、後に《原爆の図》を描くことになる丸木夫妻は、どのような動きをしていたのか。
以下は、田中さんの文章からの抜粋です。

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 日本画家の位里(1901-95)と洋画家の俊(1912-2000)は、戦後の共同制作「原爆の図」の15連作で知られる。同館常設展示室にあるこの一群の作品は、「共闘制作」という評者もいるほど、異質な個性を持った2人の激しい格闘と、様々な取材、支援者の声や要望の蓄積から生まれたが、本企画展は、2人が結婚する前史から比較してみられる。
 興味深いのは、大観の「海山十題」発表のころの位里はシュールレアリスムなどをくぐった「前衛的画家」で「雲」(39年)など、今ではむしろ戦後の抽象表現主義絵画かと見えるような実験的・先駆的な試行をしていた。また俊は、当時の女性としては珍しい行動家で、日本の統治下にあった西太平洋のミクロネシアへ旅をし、「ヤップ島」(40年)などゴーギャンの影響が強い画風だった。
 こうした幅広い資質を持っていた作家たちが、戦争体験を経てどう変わったのか、変わっていかざるを得なかったのか。美術家の「戦争協力」に対する戦後のいくつかの論議は、あいまいさを残したまま霧消していった。が、「戦争画」という作品をめぐっては、今後も戦前・戦後を含む長い視程で慎重に見直しを続けたいものだ。
 位里は77年になって「『原爆の図』を描いたことがよかったか悪かったか、ちっとばかり気がかりだ。恥を末代まで残したかもしれない」と書いた。自分の、他者の、代表作までも疑う。そのくらいの大きいスケールの自省、反省が必要とされるだろう。


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この企画展は、自分にとっても、学芸員として丸木夫妻の表現とは何であったかを具体的に検証する初めての試みであったので、田中さんが紙面に取り上げて下さったことは、本当に大きな励みになりました。

心からご冥福をお祈りいたします。
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