2012/1/6

『原爆文学研究』第10号  書籍

年末年始の休みは、先日刊行された原爆文学研究会の機関誌『原爆文学研究』第10号を読んで過ごしました。

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研究会発足10周年ということで、過去最多の238ページという盛りだくさんの内容です。
私も〈占領下の「原爆の図展」―室蘭と美唄の記憶〉と題する文章を寄せています。
目次は以下のWEBサイトで見ることができます。
http://www.genbunken.net/kenkyu/kenkyu.htm#dai10gou

岡村を除くと、高野吾朗さんの〈試論:小説・戯曲・映画・絵画における被爆者の“性的”描写について〉、楠田剛士さんの〈サークル誌の表紙から視る「原爆」―四国五郎、池野清、池野巖―〉、内田友子さんの〈「それだけ?」のあと〉が《原爆の図》の話題をとりあげて下さっています。
こうして専門領域を超えて《原爆の図》が多くの方に論じられるのは、とても嬉しいです。

   *   *   *

高野さんは、井伏鱒二の『黒い雨』や田中小実昌の『浪曲師朝日丸の話』、谷崎潤一郎の『残虐記』、福永武彦の『死の島』などの文学作品とともに、《原爆の図》の「エロチシズム」について論じ、次のような興味深い指摘をしています。

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(略)……そこには“被爆者のありのままを描くことで、ヒロシマの現実を広く世に伝えたい”という記録主義的リアリズムの声と、“被爆者をあえてエロチックに描くことで、ヒロシマの現実をも越えるような普遍の美を産み出してみたい”という芸術至上主義的モダニズムの声の二つが、キャンバス上で微妙に交錯している様子が窺えるのである。この交錯ぶりが発表当初、とりわけ被爆体験を持つ鑑賞者に対して大きなとまどいを与えたことは、容易に想像できる。……(略)……被爆者とエロスの組み合わせを、“原爆の被害を伝えるという目的にそぐわない行為”と否定的に見るか、はたまた“美しい”と積極的に見るかで、この作品群の評価は今も見るものの心をどこかひるませるのである。

 そしていま、わたしはこの“交錯”にこそ、『原爆の図』が“連作化”していかざるをえなかった動機のようなものを強く感じるのである。
……(略)……

 いま思うと、この『原爆の図』の場合も、前述の『死の島』のごとき興味深い“メタ性”がはるかに内在化できたはずである。その絶好の契機となりえたはずの場、それは、夫妻が各図に毎回付随させた、あのキャプションのごとき文章の中にこそあったのではなかろうか。これらキャプションにおいて、“なぜ被爆者の裸体を、かくもエロチックに描かざるをえなかったのか”という画家自身の問いそのものがもっとしっかり前景化されていたならば、その問いかけ自体が各図をさらに謎めいたものにし、鑑賞するわれわれ自身の原爆観をさらなる深みへと誘う結果にさえなっていたように思うのである。……(略)……

 この文章 [岡村註:第1部《幽霊》の説明文] が強く感じさせるのは、絵そのものを“未完の謎”へと開いていこうとする意思ではなく、むしろ一つの定まった“リアル”へと“固定”させていこうとする意図の方である。発表時から五十年以上の時を経たいま、こうしたキャプションをいっそ全く知らずに鑑賞した方が、いっそうどっぷりとこちらの心身を『原爆の図』それ自体の“交錯”ぶりに浸すことができるのではなかろうか――……(略)

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《原爆の図》に付属する説明文が絵に対する視線を“固定”させてしまっている、という高野さんの指摘は、《原爆の図》が描かれた時代のなかで丸木夫妻がみずから背負った、あるいは背負わざるを得なかった重い“使命”についても考えさせられますが、作品が根底の部分で抱えている大きな問題に鋭く触れているように思います。
また、60年前の絵と文章の関係をそのままのかたちで展示し続けている丸木美術館への問題提起のようにも感じます。
いずれにしても、じっくりと考えていきたい重要な問題です。

   *   *   *

楠田剛士さんは、広島の『われらの詩』と長崎の『芽だち』という、ともに敗戦後に結成されたサークル誌の表紙を手がけた画家たちを取り上げ、四国五郎の絵に見られる《原爆の図》の影響について言及しています。

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 「反戦詩歌集」第二集と同時に発行されたのが、「われらの詩」八号の「平和特集号」である。「われらの詩」の通巻七号目になるが、八月六日の発行月に合わせて七号ではなく八号として刊行された。表紙と裏表紙は一枚の絵になっており、被爆直後の人と街を描いている。八号を編集した且原純夫は「あとがき」で、表紙は丸木位里、赤松俊子の「原爆図」を使用することになっていたが間に合わなかったと説明している。四国による八号の表紙絵は、そのような事情もあってか「原爆の図」に似た雰囲気があるのだが、いくつか注目したい点がある。

 まず「原爆の図」から摂取された点についてである。「原爆の図」は、はじめ第一部「幽霊」が一九五〇年二月の第三回アンデパンダン展に「八月六日」という題名で発表された。同年、第二部「火」、第三部「水」が完成すると三部作完成記念展が開催され、さらに全国巡回展が行われた。われらの詩の会も広島での展示に協力し、一〇月に坪
[原文ママ] 井繁治、丸木位里、赤松俊子を囲む座談会や、朗読会を開いている。四国は広島で開催されるより以前に「原爆の図」を視ていたと考えられる。「幽霊」の中程で、座って右手で頬杖をついている人物が、八号の表紙の下で描かれている人物のモデルに当たるだろう。うつむき方、鼻の形がほぼ一致するからだ。表紙中央の女性は、「水」において子供を抱える母親の姿に似ている、 [原文ママ] 同時期の「反戦詩歌集」第一集のカットでも同じような人物像が描かれているので断定はできない。

 また、「原爆の図」で描かれていないものがここで描かれていることも気になる。「原爆の図」にはほとんど具体的な背景がないが、八号では被爆した街が描かれている。そのなかで大きく描かれるのは、屈折した足と荷車の車輪である。また、水筒か何かで水を飲む人物も「原爆の図」には見られない。被爆直後の様子を直接見ていない四国が、「原爆の図」にも描かれていない原爆被害を描くとき、このような風景や人物は自然に想像されるものであろうか。参照されたイメージがあるとすれば、それは被爆写真の風景や人物ではないだろうか。山端庸介による長崎の被爆写真のうち、鳥居を撮影したものには、水筒の水を飲む少女の姿が写っている。屈折した足は、広島・長崎それぞれにおいて救護所で横たわる人びとの写真で見られるものである。被爆写真は一九五二年まで広く公開されていなかったが、それ以前にも目にすることができ、丸木夫妻が「原爆の図」制作の際に参照したという指摘があるように、四国もまた五〇年当時、被爆写真を視た可能性は十分にある。このように考えると、八号の表紙は同時代の絵画と写真の受容の一例として興味深いものとなる。


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四国が被爆者の群像を描く際に《原爆の図》を参考にしたという指摘は、逆に言えば丸木夫妻が描くまでそうした表現がほとんどあらわれてこなかったということで、上記の文章でも紹介されている壺井繁治と丸木夫妻の座談会の次のような俊の発言にも呼応しています。

原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか、「長崎の鐘」でもお祈りするだけだ。それより人が死んだということがつらいし、癪にさわるという氣持ちもあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもつた。

《原爆の図》が山端庸介らの写真をもとにして描かれていることは、すでに小沢節子さんの先行研究などによって指摘されていますが、もちろん写真をもとにして原爆の絵を描いたのは丸木夫妻だけではなかったわけですし、丸木夫妻の作品もまた他の画家たちの参考になっていたのだという大きな影響関係のつながりが、楠田さんの論考から読みとれます。

   *   *   *

内田さんは、10年前に柳川市教育委員会などが全国から募集した「白秋祭献詩」で文部科学大臣奨励賞に選ばれた、原中貴士くん(当時小学校2年)の詩「原ばくの図」をとりあげています。

原中貴士「原ばくの図」

丸木位里・俊のかいた
原ばくの図を見た

おとなもこどもも
犬もねこもうまも
くるしそうだった
みんなはだかだった
やけていた

千ばづるをつくるコーナーがあった
おかあさんがみんなでおろうかといった
ぼくはみどりのつるをおった

かえりにかんそうをきかれた
こわかったといった
おかあさんが
「それだけ?」
といった
おとうさんが
それでいいよといって
ぼくのあたまを
ポンポンとたたいた


「懐かしい!」と思ったのは、10年前、私が丸木美術館で働きはじめた頃、この詩を紹介した『朝日新聞』(2001年10月14日付)の記事が、美術館の廊下の壁に掲示されていたためです。
内田さんがこの詩に注目されたのも、原爆文学研究会がはじまったのがちょうど10年前だったことが理由のひとつなのでしょう。
エッセイの最後を、内田さんは次のように結んでいます。

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 十年前におかあさんから「それだけ?」と聞かれて困った男子が、今も続きのことばを考えているかどうか、わかりません。たぶんもう考えていないでしょう。ほかに考えなければならないことが、いまの時代を生きていればきっといっぱいあるでしょうから。
 十年という時間をかけ、多くの人によって作られたこの研究会も今後いつまで、どのようなかたちで続くのかあるいは続かないのか、これもわかりません。ただ、ある日ふと考えたり話したり聴いたりしたくなった十八歳がふらりと顔を出すことのできる「場所」は、いつまでもあってほしいと思います。


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「ある日ふと考えたり話したり聴いたりしたくなった十八歳がふらりと顔を出すことのできる」という“場所”――原爆文学研究会はもちろん、丸木美術館も、そのような“場所”として「いつまでもあってほしい」と思いながら、このエッセイを読み終えました。

   *   *   *

『原爆文学研究』第10号(花書院、2011年12月25日発行、定価1,200円=税込)は、丸木美術館入口ロビーでもお取り扱いしています。さまざまな視点から原爆表現が語られる充実した機関誌ですので、興味のある方はぜひ、ご覧ください。
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2012/6/13  10:20

投稿者:okamura

山口節子さま
こちらこそ、どうもありがとうございます。
まさかお母さまからコメントがあるとは思いもよらず、たいへん驚き、嬉しい気持ちにました。
原中くんの詩、とても率直ないい詩ですよね。
どうぞ、くれぐれもよろしくお伝えください。
寿司職人、楽しみですね!

2012/6/12  20:28

投稿者:山口節子

原中貴士の母です。10年前になりますね!あのときの詩が今も忘れられていないことに驚きました!家庭の事情で父親とは離れて暮らしていますが貴士本人は、寿司職人を目指し、頑張っております。原爆の図は家族に強烈な印象を残しました。今でも忘れていません。丸木美術館から送っていただいた絵はがきのセットも記念にとってあります!娘が偶然見つけたブログに懐かしい気持ちでいっぱいになりました!ありがとうございます。


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