2011/10/26

【北海道出張第1日】美唄炭鉱施設巡り/白戸仁康氏講演会  調査・旅行・出張

早朝の飛行機で羽田から新千歳空港へ飛び、札幌を経由して美唄に向かいました。
一昨年暮れに1枚の写真をきっかけに発掘された「美唄原爆展」や、その後の全道を巡る巡回展の調査でたいへんお世話になった前美唄市教育委員長で郷土史研究家の白戸仁康さんが、夕方から美唄市民カレッジで「米軍占領下の「原爆の図」美唄展 ―子どもたちの1枚の集合写真から―」と題する講演会を行うというので、ぜひお聞きしたいと思って駆けつけたのです。

美唄の地名は、アイヌ語のピパ・オ・イ(沼貝の・たくさん・いるところ)に由来します。かつてはその意味を地名に用いて「沼貝村」と称していましたが、1925年には、美唄炭田の名が全国に知られていることや国鉄駅名が美唄だったことを理由に「美唄町」と改称したそうです。

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美唄駅に着くと、白戸さんが車で迎えに来て下さっていて、さっそく美唄市郷土史料館に案内して下さいました。

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郷土史料館の入口ホールには、日本一大きいという泥炭柱が展示されています。
美唄は、鉄道を挟んで東は炭鉱のあった丘陵地帯、西が泥炭湿地を開墾した農業地帯と大きく分けられます。その泥炭の層を、2000年以上にもさかのぼって見ることができるのです。
白戸さんの解説で興味深かったのは、泥炭に別の場所から土を運び込んで土壌を改良する際、通常は家畜や人力で運ぶことが多いのですが、美唄の場合は滑車を使って山から土を“空輸”したという話でした。「これはまさに炭鉱の発想」と白戸さん。開墾にも炭鉱で培ったノウハウが生かされているというわけです。

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館内の展示は、美唄の自然や生きものたち、松浦武四郎らの地勢調査や開拓の歴史、炭鉱の移り変わり、生活文化の歩み、といった具合に分けられています。
そのひとつひとつを白戸さんは丁寧に解説し、前副市長のBさんも同行していっしょに案内して下さいました(写真は左からBさん、白戸さんと、剥製の馬と農民の人形展示)。

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私は美唄を訪れるのは初めてなので、たいへん勉強になったのですが、なかでも圧倒されたのは、やはり炭鉱に関する展示でした。

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美唄の基幹産業であった炭鉱は、三菱や三井といった財閥系企業が進出し、1951年には市内の炭鉱の出炭量が200万トンにも達する活況となりました。当時は美唄市の人口9万2,000人(現在は約2万5,000人)のうち炭鉱地区の人口は約6万人を占めていたそうです。
時代とともに採炭の現場は坑を支える木柱が鉄柱に代わり、「タヌキ掘り」と呼ばれた手掘りからドリルやコールカッターが導入されるなど機械化生産に転換していくのですが、展示ではそうした採掘技術の変遷を実際に使われた道具や等身大の人形模型で再現し、「友子制度」と呼ばれる互助組織や、戦時中の中国人や朝鮮人の強制労働者、英国人の俘虜の実態、事故による被害の内訳などを、とても丁寧に紹介していました。
こうした展示内容にも白戸さんは深く関わっているようで、普通なら企業が絶対に公開しないであろう悲惨な事故の被害状況などもきちんと展示されていることが、非常に印象に残りました。

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郷土史料館を出た後は、来年1月21日から27日まで開催予定の60年前の原爆の図美唄展の再現展示の打ち合わせを兼ねて市役所へ移動。市役所の屋上から美唄の町を展望し、白戸さんに三井炭鉱と三菱炭鉱の位置関係やその違いについて教えて頂きました。

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東部丘陵地帯の山裾に今でも見える住宅街(写真下部)は、三井美唄炭鉱の住宅跡です。
かつては夜も明々と灯りがともる近代的な街並みで「満艦飾」や「不夜城」とも呼ばれていたそうですが、石炭から石油へのエネルギーの政策転換により、1963年7月に国内大手炭鉱としては初めて閉鎖。しかし、三井は自社で土地を所有していたために、その後も住宅街は残り続けて現在に至っているそうです。

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それに対し、美唄川に沿って谷あいに細長く伸びて行った三菱美唄炭鉱の住宅跡(写真中央、丘と丘の間)は、今はまったく建物が残っていません。もともと国有地を三菱が借りて炭鉱を拓いていたために、1972年4月に三菱美唄炭鉱が閉山すると、もとの林に戻すために、すべての住宅長屋や炭鉱施設などを「ところ払い方式」で撤去したのだそうです。
そのため、60年前に原爆の図展の会場となった三菱美唄炭鉱労働組合本部も、国内初の炭鉱生産管理闘争による「人民裁判事件」の舞台になった宮ノ下会館も、今は跡かたもなくなってしまっているわけです。

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しかし、三菱美唄炭鉱は建坑巻揚櫓などいくつかの象徴的な建物が保存されているというので、午後は白戸さんにお願いして、美唄川に沿って炭鉱の跡地を案内して頂くことになりました。

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市街を離れてはじめに見えてきたのは、廃線となった美唄鉄道の旧東明駅。
美唄鉄道は美唄駅から東明−盤の沢−我路−美唄炭山−常盤台(10.56km)と山あいをぬって走り、主に三菱美唄炭鉱から採掘された石炭の輸送を行っていたそうです。

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駅には「2号機関車」と呼ばれる4110形式十輪へい結過熱機関車が静態保存されていました。
ドイツから輸入した4100形をモデルに、急勾配や曲線に強く、雪にも滑らないように設計されています。美唄鉄道が三菱造船神戸造船所に発注し、1919年11月に完成。1972年5月まで運行されていたとのことです。

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さらに進んでいくと、紅葉がきれいな山のなかに、通洞坑坑口が見えてきました。
竪坑巻揚櫓の残る炭鉱メモリアル森林公園まではまだかなり距離があるのですが、白戸さんのお話では、このあたりの山のなかはずっと坑道でつながっているそうです。

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そのまま川沿いに上って行くと、我路(がろ)地区に入ります。
美唄鉄道の我路駅周辺は、鉄道が開通した途端に炭鉱を当て込んで商店や住宅が激増したという繁華街だったそうです。

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この建物は、映画『小さな町の小さな映画館』(森田惠子監督、2011年)でも紹介されていた我路映劇。フィルムが火事になりやすいので、映写室だけ頑丈にコンクリートで作っていたのでしょう。今は客席は跡かたもなく、映写室の部分だけが廃墟となって残っていました。

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かつての繁華街も、今はほとんど建物さえ残っていません。
専門店で賑わったという当時の様子を想像することは難しい状況です。
我路は国有地ではないので、三菱美唄炭鉱が閉山しても住宅を撤去したわけではないのですが、やはり炭鉱が亡くなると、土地に残って暮らす人の数は激減するというわけです。

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川の方の道(一条と呼ぶそうです)を下りていくと、衆議院副議長を努めた社会党議員の故・岡田春夫の生家の一部が現存していました。
モダンな作りの赤い屋根が紅葉によく似合う立派な建物でした。

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三菱美唄炭鉱の様子を「うなぎの寝床のよう」と白戸さんは形容していましたが、たしかに、谷あいの川に沿って炭鉱は細長く奥へと進んでいきます。
続いては、1973年に廃校になった沼東(しょうとう)中学校のグラウンド跡に作られた我路ファミリー公園に到着しました。沼東中学校は白戸さんの母校とのことです。

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美唄出身の彫刻家・安田侃の彫刻「炭山之碑」が見えますが、熊が出るため公園内は数日前に立入禁止になったというので、あまり奥までは行けません。

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三菱美唄炭鉱の歴史を伝える三菱美唄記念館という小さな施設もあります。
このあたりには、美唄鉄道の美唄炭山駅があったそうです。
いよいよ炭鉱跡地に近付いてきたと実感します。

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三菱美唄記念館の中には、当時の炭鉱の情景を空撮した写真も展示されていました。
すっかり自然に帰った今の地形と当時の写真を見比べても、なかなか想像できません。
たとえば、航空写真の左下に見える大きな建物は三菱美唄病院だったそうなのですが……

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こちらが現在の地形。この朽ちかけた橋の向こうに病院があったそうなのです。
今ではすっかり雑木林になっていて、病院を建てるほど広い敷地があったとは思えません。

先ほどの航空写真では、病院のやや右上、美唄川を挟んだ対岸をよく見ると、小さな2階建の白い三角屋根の建物があります。

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この建物が三菱美唄炭鉱労働組合本部。
1951年秋に新築され、1952年1月に原爆の図展を開催した会場です。

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白戸さんに跡地を教えてもらったのですが、残念ながらどう見ても今はただの雑木林。

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60年前に、雪の中を子どもたちが建物に入りきれないほど集まってきたという形跡は、まったく感じることができませんでした。
ちなみに白戸さんも当時、中学生として原爆の図を見ていたひとりなのです。
この周辺の山の中腹には、「鴻の台」「桂台」「旭台」「桜ヶ丘」「常盤台」「楓ヶ丘」といった炭鉱住宅街が形成されていたそうですが、白戸さんのお話によれば、「丘」とつく地名は三菱の社員の住宅街、「台」とつく地名は鉱員住宅とはっきり分かれており、住所を聞くだけで身分がわかってしまうという“差別”も存在していたそうです。

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さらに上へ上へと進んでいくと、ついに巨大な竪坑巻揚櫓が二つ見えてきました。
炭鉱メモリアル森林公園です。
竪坑巻揚櫓は、深さ約170mの竪坑内の換気や人と石炭の搬出入に使われていたそうです。
残念ながらこの公園も熊が出るため立入禁止となってしまい、遠くから建物を見ることしかできませんでした。

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公園内には、採掘した石炭を貯蔵する原炭ポケットも残されています。
鉄筋コンクリートの柱と梁による格子状の構造に特徴がある建築物で、岸壁崩落防止のために残されたそうです。

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公園の奥には、通洞坑の入口も残っていました。
通洞坑は入口から石炭層に沿って蜂の巣状に広がっていたそうです。
1941年3月18日には三菱美唄炭鉱史上最大のガス爆発事故が起き、当時入坑していた370人のうち、193人が猛火の中に取り残されたとのこと。救出と遺体の搬出は困難を極め、消火のためにコンクリートによる密閉作業や注水作業が行われ、1ヵ月後には死者124人、行方不明者53人の合同葬儀が行われました。事故現場は完全に水没し、行方不明者53人の遺体(そのうち朝鮮人労働者14人)は現在も坑内に残されたままだということです。

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公園の周囲の道路をぐるりと走った後は、通ってきた道を一気に下って、廃校になった旧栄小学校を活用したアルテピアッツァ美唄に行きました。

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美唄出身の彫刻家・安田侃の彫刻作品が、緑豊かな空間のなかに配置されていました。

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木造校舎も残り、ギャラリーや幼稚園として活用されています。

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使いこまれた木の味わいが素晴しい空間でした。
炭鉱の閉山によって子どもが減り、残された施設を芸術によって再生させたひとつの例と言えるのでしょう。現在はNPOが管理をしながら、コンサートやワークショップなどさまざまな活動を広げているそうです。

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その後は白戸さんのお宅にお伺いして、しばし休憩。
北海道の捕虜収容所 もう一つの戦争責任』(道新選書、2008年)などの著作で知られる白戸さんの書斎の膨大な資料の山を拝見しながら、丹念な調査の方法論などをお聞きする貴重な時間となりました。

夕方7時からは、美唄市民カレッジで白戸さんの講演「米軍占領下の「原爆の図」美唄展 ―子どもたちの1枚の集合写真から―」を聴きました。
会場は満席で、室蘭展でお世話になる画家の北浦晃さんもご家族で来場されていました。

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白戸さんの調査については以前にもたびたび学芸員日誌に紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1281.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1404.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1450.html

美唄を含めた原爆の図展の調査を白戸さんと協働しながら進めてきた私は、もちろん、講演の内容の多くはすでに知っていることだったのですが、時にユーモアを織り交ぜながらの話しぶりや、何より、地域の人びとに根差した眼差しからの丁寧な発表の様子に、とても心を打たれました。

ちょうどタイミングよく10月17日付『北海道新聞』のコラム「異聞風聞」で、O編集委員が“女ゴーギャンの遺言”という文章を書いて下さっていたので、白戸さんはその記事を紹介しながら、まとめとして、今なぜ60年前の原爆展に注目するのか、という思いを語って下さいました。

60年前の米軍占領下の時代、反米運動として弾圧を受ける可能性のあった原爆展を命がけの思いでつなげてきた人たちが、北海道をはじめ全国各地にいたわけです。その一方で、新聞などのメディアはタブーであった原爆展の動向を報じることはほとんどありませんでした。
当時の状況と、国を挙げて原子力発電の危険を隠して推進してきた現在の状況とは、いったい何が変わっているのか。私たちは、同じ道を繰り返してきただけではないのか。
白戸さんの発表を聞きながら、そんなことを考えました。

非常に充実した美唄での一日。
付ききりで市内各所を案内して下さった白戸さんはじめ、あたたかく迎えて下さった美唄市の皆さんに、心から感謝いたします。
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2011/10/31  7:54

投稿者:okamura

森田惠子さま

我路映劇は、森田さんの映画を拝見したから、見に行きたいと思ったのですよ!
また素晴しい映画を撮ってくださいね。

2011/10/30  22:50

投稿者:森田惠子

我路映劇、アルテピアッツァ美唄、私も行きました。
新緑の美しい季節を狙って出かけたのですが、秋もいいですね。

ところで、最近、ブログを始めたので「読んでいるブログ」に「丸木美術館学芸員日誌」を登録させていただきました。事後報告で申し訳ありませんが、ご連絡申し上げます。
よろしくお願い致します。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/Harunoumi/


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