2011/10/10

原爆堂についての新聞資料  原爆堂計画

今日は、午後に目黒区美術館のI学芸員が御夫婦で来館して下さいました。
I学芸員はこのところ、丸木夫妻と白井晟一の原爆堂計画について次々と重要な資料を発見して下さっているのですが、先日も、中国新聞D記者の調査によって新たに見つかった中国新聞の過去の記事を送って下さいました。

1954年8月7日付夕刊「原爆美術館を計画 丸木位里夫妻が」
1956年3月8日付夕刊「一刻も早く“原爆堂”を 故服部氏の遺志くんで」
1957年6月5日付朝刊「望まれる美術館 異色ある原爆堂設計 世界各国から援助の声 残したい原爆もの 反省の要あり画家の態度」
1966年8月9日付朝刊「「原爆の図」一堂に 埼玉県へ専用美術館 丸木夫妻が独力で建設」
1967年4月14日付朝刊「「原爆の図」を常陳 埼玉の丘陵に美術館 独力で建てた丸木夫妻」
1987年8月12日付朝刊「ヒロシマ表現の軌跡 第2部 丸木夫妻と告発 <6> 原爆の図(下) アメリカでも展覧会 新事実学んではかきつぐ」


このうち、最初の1954年8月7日付『中国新聞』に掲載された「原爆美術館を計画」の記事は、おそらく同年8月5日付『朝日新聞』夕刊に掲載された内容をもとにしているのでしょう。
現在わかっている限りでは、『朝日新聞』の記事が最初に丸木夫妻の美術館計画を報じたもので、白井晟一はこの記事を読んで原爆堂の設計に着手したと言われています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1653.html

その後、丸木夫妻は白井晟一の原爆堂計画を知るのですが、両者の思いは次第にすれ違いはじめ、原爆美術館/原爆堂の計画は、遅々として進まぬまま時間だけが経過していきます。
そんな状況を見かねたようにして報じられたものが、今回初見となった1956年3月8日付『中国新聞』夕刊の記事です。

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 “明治の政治家たち”“明治維新史”などの著者として有名な法政大学教授服部之総氏はさる4日糖尿病で54歳の一生を閉じたが、同氏が原爆犠牲者の霊を慰め、永遠の平和を祈る原爆堂建立のもっとも熱心な支援者だったことから、服部氏の遺志をくんで出来るだけ早く“原爆堂”を完成させたいという声が関係者の間で起っている。

 “原爆堂”を建てようという話は“原爆の図”の作者丸木位里、赤松俊子夫妻=東京都練馬区谷原2の1488=を中心に以前から計画されていたが、その第1回準備会が昨年6月東京新橋で開かれた。そのおり集まったのは服部氏をはじめ赤松夫妻、社会党代議士高津正道氏などで“原爆堂”についていろいろなプランが練られた。中でも服部氏はこの実現のためにもっとも熱心な支援者で“原爆堂”の名を無碍光寺(ムゲコウジ=無碍は障害がないの意)と命名 「さわりなき弥陀(ミダ)の光は無碍光寺ひろしまの土に平和あらしめ」と自作の和歌をその席で書き残すほど献身的だった。

 同氏のプランによると“原爆堂”は寺院ふうのものとし、本堂には原爆犠牲者の霊をまつるほか、付属建物として“原爆絵画館”をつくり、寺院の境内には池も掘って、厳粛で美しい霊場としたいという。その後同氏は準備会にはかかさず出席、この実現のために努力してきたが昨年末から病に倒れ「ぼくが死んだら原爆堂へ埋めてくれ」といい残したまま他界した。

 一方建立の話はその後いろいろなプランが出てなかなかまとまらず赤松夫妻が“原爆の図”の展覧会のためペキンへ出立する4月までになんとかまとめたいと努力しているが、服部氏の死に対して同氏の遺志を尊重して一刻も早く“原爆堂”を完成しようという声が起っている。

 赤松俊子さんの話 服部さんは実に熱心にこの運動を支援して下さいました。いま私の知人の建築家白井晟一氏=東京都中野区江古田2の941=が“原爆堂”の設計図を作ってくれていますが、服部さんの意見を十分くみいれて、一刻も早く設計図だけでも完成したいと思っています。これが原爆犠牲者だけでなく、亡くなった服部さんにもこたえる唯一の道だと思っています。


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歴史学者である服部之総の名前は、原爆堂計画の発起人として俊の著作『生々流転』(1958年、実業之日本社発行)にも登場します。
しかし報じられている“無碍光寺”という構想を抱いていたことは、初めて知りました。
原爆堂計画、とひとことで言っても、さまざまな人のさまざまな思いが渦巻いていたことを、あらためて考えさせられます。
丸木夫妻は、多くの人の思いを調整しながら大きなプロジェクトをまとめていく、という性質ではなかったでしょうから、計画が難航したことも、記事を読みながら何となく頷けるのでした。

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1957年6月5日付『中国新聞』朝刊の記事「望まれる美術館」は座談形式のもので、これもたいへん興味深い、初見の記事でした。
少々長くなりますが、引用して紹介いたします。
(注:「本社」は学芸部長もしくは事業部長。ほか、日本画家の浜崎左髪子、広島県教委社会教育課の新川貞之、茶道家の永田宗伴、広島県議会議員の松島綏と荒木武、洋画家の福井芳郎、広島青年会議所の水馬義輝の各氏による座談)

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本社 これまでの広島画壇の仕事は展覧会中心だったが、いまは常設的に良い美術品を見せる場所として美術館がほしいという声が大きくなってきてる。荒木県議さん、最近の情報を……。

荒木 丸木位里さんと赤松俊子さんが原爆10周年までにかきあげた原爆の図10部作が中共、朝鮮、蒙古、オランダ、ベルギ−、西ドイツ、フランス、イタリーの各地で展覧され、今後はアメリカ、アフリカ、豪州へも持ってゆきたいとのことですが、こんどわたしが上京したときこれを納める美術館の話が東京方面で持ちあがってることをききました。建築家の白井晟一という人が丸木夫妻に面識のないうちから、この話に共鳴して構想を練り、昨年4月の“新建築”という雑誌に設計図を発表してる。それによると広い緑地のふちに池をつくり美術館をその池のはたに設け、池のまん中の水中から大きい円筒型の壁を立ててその上に四角型の原爆記念堂を支える。原爆記念堂へは池の底の地下トンネルで対岸の美術館と連結する−−という設計です。敷地や建物の規模は現地の状況で適宜変更できる建前として、その1階、地階の平面、配置、側面の設計図や見取図が出ている。このアイデアを提案した白井さんは若いとき京都大学へ通ってカントやヘーゲルの哲学を勉強するかたわら京都高等工芸学校を卒業し、ドイツのハイデルベルヒ大学に入学して美学を専攻し、有名な哲学者のヤスパースに師事し、イリヤ・エレンブルグやアンドレ・マルロウなどとも交わったが、やはり精神主義の作家だといわれております。エジプトやギリシャの古代建築などもいろいろ研究したすえにこんどの“原爆堂”のアイデアに到達したよしです。白井氏と丸木夫妻にも会って話をききました。各方面の賛同をえており、朝倉文夫、久原房之助、片山哲、滋賀県の真宗木辺派本山の木辺孝慈、湯川秀樹、浅野長武、三笠宮−といった方々が支持しておられまして、場所は第1候補地を東京、第2候補地を広島ということですが、浅野さんは“広島におかなきゃ意味がないよ”といっておられました。丸木夫妻はお母さんのスマさんが亡くなったので途中から帰国しましたが、まわってきた世界各地で“原爆の図を納める美術館をつくるならば援助を惜しまない”という話が出たそうです。地元でも支持者ができつつあるようすですが、東京には発起人が十数人いるから、広島にそういうものを建設するとなればとても地元全体の賛同と支持がなくしては実現できないことではあるし、東京と広島と双方の了解と支持を得たい、といっている。

水馬 資金は?

荒木 それはこれからの話で丸木氏は欧州から帰るとき1年間有効の航空往復切符を手にしているので、いよいよやるとなれば具体的プランを持って再渡航して訴える機会がある。自分の考えでは海外や東京方面にばかりはたよれないから地元でも資金をつくってもらってもらいたい。

水馬 丸木夫妻の作品だけ陳列するのですか。

荒木 原爆堂へ作品を納めるほかギャラリーもあるわけだからりっぱな作品でさえあれば何びとの物でも原爆関係のものは原爆堂へ、一般のものは美術館へ納められる。先立つものは資金だが、けっきょく大口で資金を集めようというとき大会社などがどう考えるかが問題だ。

永田 広島に美術館はぜひ欲しいが、どういう運動かが問題だ。左翼運動はともすると平和問題を利用してかかる傾向があるから。

荒木 丸木夫妻の趣意書は“願主・丸木赤松”といった形のもので純粋な気持での悲願が表われている。

永田 イデオロギーを抜きにしたものならよい。東京の連中に広島で20万死んだといってもピンとこない。20万死んだ現場と20万という数をきくのとは別らしい。

松島 美術館が広島に欲しいことは世論になってきてるが、主体性の問題がある。絵がさきか美術館がさきか。

荒木 白井氏にきいたら、理想通りにやれば1億5千万円ぐらいかかる。ただし土地や地元の希望や資金の都合で修正の必要があろうといって……。

水馬 丸木夫妻の作品は広島に残したい。丸木さんのも福井さんのも。

浜崎 どこがその美術館を所有し、運営の責任をもつか、その維持費も人事も問題だ。

荒木 神奈川県立美術館も年に七、八百万円の維持費がいる。

水馬 美術館に何を陳列するかという点で、博物館と大家の絵と現代のものと三つの使い方がある。いまは世界的に日本趣味ばやりで、それがまた日本に逆輸入されてる。

浜崎 パリの話でなしに東洋美術や日本美術の話をすればいなかに行くほどバカにされる。広島県にもりっぱな民芸品が人に知られずに埋もれてる。

新川 大竹の小学校も美術館建設のための寄付をしてるし、各地の公民館活動や農村のもりあがりも無視できない。古墳などの埋蔵文化財を保存する場所もない。

永田 先日はドイツのケルン美術館員の女性が、蘆雪の研究で留学して京都から広島へまわってきた。広島は蘆雪の名品が多いからと保田家の所蔵を見て帰ったが、この人の鑑賞力は、ホンモノだった。広島で蘆雪に関心をもつ洋画家などほとんどいないが。

荒木 広島市の三滝が自然植物園に指定され、国有林の15万坪に天文台も動物園も計画されてる。ここならば白井氏の構想の原爆堂と美術館ができるだけの土地がある。

浜崎 浅野図書館の田淵氏と一しょにいろいろ物色し、土地の測量までしてみたが、だいたい広島画壇にまだ信用がないから、そのほうが先決問題だ。

松島 美術館にはこれからいいだして3年ないし5年はかかるだろう。

本社 広島の美術館は近代美術を中心に、博物館、工芸館、民芸館の性格をも総合したものにして社会教育とか公民館活動のための地方貸出しもやる文化センターにするというのが皆さんの大体一致される意見のようです。これから先は皆さんと読者との宿題にしてもらってこのへんで。


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荒木武県会議員(のち、1975年から1991年まで広島市長)が言及している「趣意書」は、おそらく先日発見した草稿をもとにした文書だと思われます。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1714.html

この記事で興味深いのは、「世界各地で“原爆の図を納める美術館をつくるならば援助を惜しまない”という話が出た」「東京には発起人が十数人いる」というように、発起人や資金調達は丸木夫妻の《原爆の図》に頼っているのに対し、実際の展示や運営活動に関しては、「広島の美術館は近代美術を中心に、博物館、工芸館、民芸館の性格をも総合したものにして社会教育とか公民館活動のための地方貸出しもやる文化センターにするというのが皆さんの大体一致される意見」と結論づけられている点です。

広島に原爆美術館/原爆堂を建設するという計画が実現しなかったのは、もちろん資金の目処が立たなかったというのが一番の理由でしょうが、《原爆の図》のための美術館建設を願っていた丸木夫妻と、総合的な公立美術館を構想した広島市側の違いも大きかったように思えます。

現在とは違い、公立美術館も個人美術館も日本に数えるほどしか存在しなかった時代です。
今では想像することも難しいですが、“美術館建設”という計画そのものが、あるいは途方もない夢物語のように語られていたのかも知れません。
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