2011/9/11

「原爆堂設立の趣意書」草稿発見  原爆堂計画

朝、小高文庫の丸木夫妻関係の資料を少し整理していたところ、「原爆堂設立の趣意書」と記された封筒に入った、俊の字による原稿用紙5枚の草稿を発見しました。

クリックすると元のサイズで表示します

「原爆堂」とは、建築家の白井晟一が丸木夫妻の《原爆の図》に触発されて独自に設計した施設で、結局は実現せずに終わった計画なのですが、白井晟一の代表作とも言われるほど高い評価を受けています。

現在、目黒区美術館のI学芸員が「原爆堂計画」をめぐる白井晟一と丸木夫妻の当時の関わりを丹念に調査されています。

今回発見された草稿は、どのような目的で作られたのかがはっきりわかるわけではありませんが、文面から、おそらく広島市に向けて原爆堂建設を呼びかけるために記されたものと推測されます。
興味深い内容が含まれている文章なので、以下に全文を(原文のままに)紹介いたします。

==========

 一九四五年八月六日、續いて九日、原子爆弾が投ぜられました。
 人間の歴史初まって以来の最大の悲慘事がひき起されました。
 親は子を失い、子は親を失い、友人、知人、兄弟を失い。手をなくした者、足のない人、ケロイド。そして放射能の恐怖は、遺傳の恐れにまで発展して參りました。
 この恐ろしい人類殺戮の武器を轉じて人類繁榮のために利用することが出来ることを私共は知って居ります。
 人工衛星の打ち上げによって、人類は宇宙時代に入り、人類の将来に明るい繁榮のきざしを告げてくれたのです。
 それなのにまだ一方で原水爆の実験は續けられて居るのでございます。
 “このようなことを止めて下さい”
 と、人人は願い、語り合って參りました。芸術の分野では、絵画に映画に演劇に、その作品を通じて訴え續けて參りました。
 この人類の願望であります原水爆禁止の運動に、大きなこうけんをした原爆之図を私共は忘れることが出来ません。
 原爆之図は、丸木位里・丸木俊子、夫妻共同の作品でございます。
 伯父を失い、姪を失い、父を失い、多くの友人を失った夫妻はめいふくを祈るつもりで描き初めたのでございますが、一九五〇年一度発表するや、人人の心をゆさぶり、醒まし、その展覧会は日本全国を行脚し、困難であった原水爆禁止運動の道を切りひらいて行ったのであります。
 行脚と共に図は三部から、五部、七部と描き續けられ、一九五六年、第十部が完成されたのでございます。
 原爆之図は海外に渡り、今世界に廣島の、日本人の願いを訴え續けて居ります。
 一九五三年に幽霊、火、水、の三部がデンマークに渡り、ハンガリ、ルーマニア、イギリス、イタリアで展覧され、一九五六年に殘る七部と合流し、中国、朝鮮、蒙古、ソヴエット、オランダ、西独、ベルギギー、スイス、セイロン、南アフリカと世界行脚を續けて居ります。
 “原爆之図は、ミケランジェロやジェリコーのみが力強く描きうる広島の悲劇を余すところなくとらえている”
 と、芸術的にも高く評價されつゝ、原水爆禁止の活動を續けて居ります。
 カナダ、オーストラリア、スエーデン、ノールウェー等からの招請に答え。全世界の平和を願う人人の手にささえられてくまなく行脚を續けることゝ存じます。
 廣島が生んだこの悲劇の作品を、この廣島の地に迎え、この地に永久展覧の場を作りたいものと存じます。
 この願いは地元広島市民の心からの賛成と協力をいたゞき、復興途上の広島市を一望に眺められる三滝山の景勝の地に設置する運びとなりました。
 設計は斯界の権威・白井晟一氏の心血を注いだ製作でございます。
 私共、特に広島市民は、憎しみ、悲しみを越え、思想を越え、宗教を越え、人権を超越し、人類最大の不幸を轉じ、全人類の繁栄と幸福の一基点となすべき、この計畫が、皆様のお力添えによって一日も早く完成いたしますことを心からお願い申しあげます。


==========

この草稿が作られた時期は明記されていませんが、世界巡回展の動向報告が南アフリカで終わっていること(『美術運動』第55号によれば、南アフリカ展は1957年9月に開催されている)人工衛星の打ち上げに言及していること(世界初の人工衛星は旧ソ連によって1957年10月4日に打ち上げられた)などから、1957年末から1958年頃であると推測されます。

1956年3月5日付『朝日新聞』には、原爆堂計画が思うように進まず、敷地も決まらず、白井晟一と丸木夫妻の間に溝ができつつあると報道されていたのですが、草稿には「広島市を一望に眺められる三滝山の景勝の地に設置する運び」と具体的に敷地が記されているのも興味深いところです。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1653.html

1958年11月1日刊行の俊の自伝『生々流転』にも、「広島の三滝の山の上、広島市が一目に見える高台に建てては如何か、と、三滝寺のお坊さんや皆さんが今、考えていて下さいます」というくだりが出てきます。
しかし、『生々流転』をベースにしつつ1977年8月20日に刊行された自伝『女絵かきの誕生』には、「ひろしまの三滝の山の上、広島市がひと目に見える高台に建ててはどうかと、三滝寺のお坊さんやみなさんが考えてくださいました」と過去形で記され、次のような顛末が付記されています。

 広島市へ寄付すべきではなかろうかとも思い、相談に行きました。それはよかろう、ということで、市役所の方と、あちこち土地をさがしに歩きました。いよいよ建設、となると、だれがどこからおカネを持ってくるか、ということになり、広島市議会にはかってくださったのです。ところが、一票の差で否決されたのです。土地は提供いたしますが、建物はあなた方でお建てください、というようなことになりました。

本当に広島市議会で1票差で否決されたかどうかは、まだ記録の裏付けがとれていないのですが、いずれにしても、この1957年から58年にかけての時期に、原爆堂建設が実現するかどうかの大きな分岐点を迎えていたのではないかと思われます。
0




※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ